言葉を「受け取る」ということ

1970年代前半にイギリスのプログレッシブ・ロック・バンド「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」(Emerson, Lake & Palmer, ELP) のメンバーとして活動した、キース・エマーソン氏が亡くなりました。

どうやら自殺だったのではないか、という話が出ています。

英文なのですが、ツイッターでこちらの記事を紹介されている方を見つけました。

記事はキース・エマーソン氏の恋人(日本人女性)による話だそうです。

「右手の神経疾患でキーボードが完璧に弾けなくなった。ツアーの後オンラインで'もう止めれば良いのに'等の心無いファンの書き込みに非常に傷付き、予定されていた日本公演でファンをガッカリさせる事を心配していた」

どうやら、そのような心ないオーディエンスの書き込みに落胆したことが、彼に死を選ばせた可能性があるのではないか、ということです。



キース・エマーソン氏に限らず、多くのアーティスト、ミュージシャンなどは非常に繊細で傷つきやすい性格である人は多いかと思います。

それを踏まえると、確かにファンの心ない発言、しかもそこから人の命が奪われたのであれば、確かに酷く悲しい話でしょう。

しかし。

人は、他人に対して自分が求めることが得られないと不満を言いますよね。

そして、その原因について、深く知ろうともしないでしょう。

多かれ少なかれ、人は自分の思い込みで話をしてしまいます。

彼の神経疾患について正しく知らなかった人からの声であれば、悪意なく「プロとしてステージに立つ以上、無理はしないでもう止めてしまえばいいのに。」という、ファンだからこその配慮であった可能性も否めないように、個人的には感じました。

そして、事情などについて詳しく知ろうとしない、察しようともしない、つまりは彼についてある程度の理解をしようとしなかった(出来なかったのかもしれませんが)側、つまりは無知な人や学ぼうとしない人の言葉を、真正面に受け止めてしまう必要はなかったのではないかしら、とも思えてしまうのです。

物事に対して、無理をしてでも続けたい人。

無理なら止めてしまいたい人。

両方の人がいると思うのです。

キース氏が前者、ファンが後者なら、ファンは彼の価値観とは逆であっても、自分では「正しい」と思ったことを言葉にしただけかもしれません。

そして神経疾患について、公表したくない気持ちが優っていたのだとしたら、それを「知らない」ファンが、彼の演奏を誤解してしまうのも当然だったように、私は思ってしまうのです。

そして、1人のファンの声が大きく広がり、誤解する人が増えるのを恐れたのだとしたら、その誤解が広がらないよう、ある程度の周知をしてしまう、ということだって出来たはず…。

それを想うと、本当にやり切れない気持ちになってきます…。


さらに感じたことではありますが。

仮にそれが自分のファンであったとしても、家族や友達、恋人であったとしても、自分の事情や気持ち、背景などなど、様々なことを知らない人からの言葉には、どうしても「誤解」が生まれてしまうと思うのです。

完全に自分のことを理解してくれる他人なんて、世の中には存在しないと思うのですよ。

今まで、多くのミュージシャンの「ファン」という立場にいた私にしてみれば(苦笑)、たとえファンであっても、そのアーティストやミュージシャンの全てを受け入れるとは限りませんし、ファンだから何でも許してくれる、理解をしてくれる、受け止めてくれるということもないかと思うのです。


たとえば神経疾患についても、彼がその状態であることを「知らなかった」り、知っていたとしても、それがどのようなものであるのか「知らなかった」り、望まない痛みと長年付き合い続け、思うように回復せずにいることがどれだけ心に影を落とすことなのか察せないという人も、残念ながら存在すると思うのです。

それでもその人が、彼の生み出す音楽が好きであれば、彼は間違いなくファンなのでしょう。彼の生み出す音楽が好きだからこそ、不完全な状態では聴きたくない。無理なら止めてしまっていいのでは、と思ってしまうのも、残念ながらファン心理ではないかと、私は思うのです。

でも、今回の悲劇のように、その逆の立場、「ファンの言うことくらい大目に見てくれるだろう」「そんなつもりはなかったのに」などという言い訳は通じないとも思うのです。

それはその関係性が、アーティストとファン同士ではなくても、家族間、恋人や友達、会社の上司や同僚などなど、様々な関係性において、同じことが言えると思うのです。


キース・エマーソン氏の行動は、結果としてとても悲しく、やりきれないものが沢山ある話なのですが…。

このような悲劇を、少なくとも自分自身で起こさないようにするために。

たとえ自分がミュージシャンなどの有名人であったり、ファンがいるような活動をしていなくても、それぞれの家族や友達など、私たちのことをどこかで必要としてくれ、大切に感じてくれている存在があるはずです。

そんな人たちに、深い悲しみを与えずに済むよう、何よりも自分がどんな状況であっても楽しく、幸せに前を向いて少しずつでも歩けるよう、出来ることがあると思えました。


それは。


言葉を「受け取る」ということ。

これについて、しっかりと自分の判断基準だったりを明確にすること。

相手の立場に立ってその発言の意図を汲み取るということ。


それが出来ないと今回のような悲劇は他人事ではなく、簡単に私たちのふとした日常でも起きてしまうのではないかと感じたニュースでした。

その言葉が自分にとって、何かしらのプラスに転向できる要素があるのなら、それは採用した方がいいと思うのです。

それがどんなに批判的、否定的な言葉であり、その時には傷ついたのだとしても、その傷を回復できる力を自分が持つことで、そんな傷は大したことにはならないかもしれないのですから。

相手の言葉をそのまま受け止めるのではなく、その言葉が出た背景や事情、気持ちを察して、自分との温度差や感覚の違いを認識することなんだろうと思います。

そして受け入れられない「違い」について、否定するのではなく、「違うのね」と認識するだけで十分であり、「だから判断も違うんだね」と割り切って、線を引いてしまえばいいのだと思うのです。

自分の人生は自分が主役ですからね…。

他人からの言葉に振り回されて、駒を進めてしまうようでは、自分の人生を歩めなかったのと同じになってしまうように思えてならないのです。

自分にとって本当に大切なものは何か。

その自分の「核」だったり、それを守るための「軸」「芯」というものを明確にしていけば、他人の無知や理解のなさから来る言葉なんて、どこ吹く風に出来るはず。

それが他人からの「言葉」から、最終的に自分の身を自分で守ることにもなるでしょうし、大切な人を判断の誤りから傷つけてしまうことを避ける、1つの方法でもあると思うのです。


【余談の毒舌(?)】

むしろ、甘い言葉で自分をコントロールしてくるような人の方が、よほど用心した方がいいと思えてなりません。

たとえば、高給案件でお金で釣られて、自分の時間も与えられず、馬車馬のように働かされていることにも「お金」という価値の前でそれに気づけず、約束通りにお金をもらって「やった!」となっても、そのお金を仕事や日々の消費生活以外で使うこともなく、最終的には疲れ果てて、「あー、お金はあるから入院しても大丈夫だな」「自分のお墓は自分で買えそうだ」と、不健康になっても大丈夫、という、結果として不健康に向かって働き、健康であることの価値もよく分かっていないくせに、不健康の改善のためにお金を使うような人生とか、個人的には最悪すぎて本当に吐き気しますわ…。

そういう人生が「ダメだ」と言っているのではなく、そういう人生を歩いているご本人が納得して、仕事まみれの人生をして、勝手に倒れて勝手に自分のお金を使って、入院しようと墓に入ろうと、私の人生には何の影響もないので、ご自由にどうぞ、と思います。

ただ、少なくとも私から見て、1つも魅力的とは思えない人生なんだよねー、というだけです。



輝凛(きりん)の独り言

日々の生活や、ニュース、色々な人からの言葉、本などから、私なりに感じた事を綴っていきます。 その他、運営している別サイトへのリンク記事もあります。