「老害」は本当に「個人の問題」?
ツイッターの相互様のリンク記事で、気になるものがあり、読みました。
そこから感じた疑問点というか、私個人の感想を…。
「老害」と呼ばれている方々のことでしょうね。
少なからず私も、そのような被害とまではいかないけども「尊敬に値する言葉じゃないし、態度でもないな…」という、ご年輩の方と出くわしたことはあるので、単純に「気分が悪い」ですとか、そういう人たちが世の中に多くいるということは、そんなに気持ちがいいものでもなければ、安心できるものでもない、というのは分かります。
が。
が、です。
なぜ彼らって、このような状態になってしまったのだろう。
記事の後半には、以下のようなものもありました。
人の感情をつかさどる脳は年を重ねるごとに萎縮することが明らかになっている。萎縮に比例して脳の機能は衰えるため、物忘れのような老化現象が現れる。そして脳の中で早い段階から萎縮が始まるのが、衝動の抑制や理性、意欲などを担う「前頭葉」。これによって感情抑制機能の低下、判断力・意欲の低下などが起こる。それ以外にも喫煙や飲酒などの長年の生活習慣によって脳の機能低下は起こる。
だとしたら。もっとこのような「老害」と呼ばれるようなことは以前から起きていただろうなー、とも思います。
現代の高齢者になってから、このような現象が身体的に起きるようになったのではないでしょう?「判明」したのは最近かもしれないけども、体のメカニズムとしては人間、そんなに都合よく進化も退化もしないよね?
となると。
【A】「老害」とされる言動は、以前は高齢者の特徴として当たり前のことだとされていたので、特に社会では問題視されていなかった。
【B】以前は「老害」などが起きる機会が少なく、世界的に例を見ない「高齢化社会」に伴って顕在化してきた現代社会の問題であり、高齢者の様々な特徴についての把握が始まる過渡期でもあるのが、今。
【C】同年代の高齢者にも嫌われているような特徴があるのだとしたら、その個人や世代特有の事情が背景にある可能性。
こんなことが考えられるなー、と思いました。
【A】「老害」とされる言動は、以前は高齢者の特徴として当たり前のことだとされていたので、特に社会では問題視されていなかった。
昔から「年寄りは労われ、大切にしろ」という価値観はあったのだと思うので、この社会的な価値観に即して行動していたり、「年寄りとはそういうものだ」と思って周囲の人が我慢をしていただけだったで、実は昔から「老害」なんてものはあったのではないかしら。
それをその当時、子供として見ていたり、親がそうだったりした、現代の「老害」と言われてしまう世代は、自分たちがそのような横柄な態度や言動だという自覚が仮にあったのだとしても、それは「自分の祖父母もそうだったから」と、当たり前に採用する価値観と言動だったりするのではないかしら。
人間誰しも、自分の周囲、特に家族が自分の人生の見本だったりすると思うのです。
そうなると、彼らは以前の自分の「当たり前」に即して行動をしているだけなのではないかしら?と思うのです。
誰しも、自分が「正しい」と思っている価値観が「当たり前」ですよね。
そして、誰しも自分が変わることに対して抵抗をしますし、変わるとしたら、それは今の状態で自分が「困った」と強く感じたりするか、変わるだけの価値があるメリットがあることではないかしら?と思うのです。
この【A】の状態で育ってきたと仮定される、「老害」と呼ばれてしまう方々。
彼らは「年寄りは労われ、大切にしろ」という価値観に即して自分が若い頃に行動をしてきた(我慢をしてきた)のだとしたら、今度は自分は我慢をせずに、周囲が我慢をするべきだ、と信じているのだと仮定すれば、少なくとも「困っていない」でしょうね。
そうなると、「老害」と呼ばれてしまっている方々に対して、どんなメリット提示ができるでしょうか。
それが出来ない限り、彼らの横暴すぎる状態は改善されないように思ってしまいます。
それと、現代の「核家族化」というのも、「老害」を生み出す大きな理由だと思えます。
自分の身近なところに老人がいないということは、年齢に応じてどのように行動や言葉が変化するのか、リアルで見る機会がないということですからね…。
つまりは、高齢者がワガママになってしまうことが「当たり前」だという感覚が、核家族化によって途絶えてしまっていれば、今の「老害」と呼ばれてしまっている方々の高齢者の言動の「当たり前」と、世間の方々の「当たり前」には大きく乖離ができてしまうのも当然でしょう。
つまりは、お互いに「知らない」「知ろうとしない」ことが、「老害」を生み出している可能性もあるようには思います。
家族の事情もあるでしょうけど、異なる世代とのお付き合いというのは、血縁の家族ではなくても、近所付き合いなどでも実現出来るはずです。
もっと異なる世代の方々同士が交流していくことというのは、様々な意味ですごく大切だろうな、と、私は記事から感じました。
【B】以前は「老害」などが起きる機会が少なく、世界的に例を見ない「高齢化社会」に伴って顕在化してきた現代社会の問題であり、高齢者の様々な特徴についての把握が始まる過渡期でもあるのが、今。
何となく、この状態にある可能性は高いように思えます。
それだとしたら、様々な研究結果としても先ほど引用したものに説得力が出るように思うのです。
人の感情をつかさどる脳は年を重ねるごとに萎縮することが明らかになっている。萎縮に比例して脳の機能は衰えるため、物忘れのような老化現象が現れる。そして脳の中で早い段階から萎縮が始まるのが、衝動の抑制や理性、意欲などを担う「前頭葉」。これによって感情抑制機能の低下、判断力・意欲の低下などが起こる。それ以外にも喫煙や飲酒などの長年の生活習慣によって脳の機能低下は起こる。
が、当然、このような現状が万人に起きているのでもないし、起きない高齢者もいるでしょうし、年齢に関係なく、老害的な迷惑な人もいたりするのも事実ですよね…。
高齢者世代の横暴さについて、これから様々な研究などが行われるのだとしたら、社会は「耐えて研究に協力してくれ」という状態になるようにも思えたりしますが、実際問題、そんな風潮もない訳ですしね…。
仮にこういう状態なのだとして、様々な研究から「対応方法」だったり、「改善方法」が提案されるようになるのだとしたら、やっぱり彼らよりも若い世代が「耐えろ」ですとか「研究だと思って、楽しめ」という姿を求められるようにも思えます。
そして、老害に限らず何にしても「どうしても起きてしまうことに対して抗うのではなく、うまく付き合う方法を探す」のがベストでしかないと私は思うので、その「うまく付き合う方法」というのは、本当にその「老害」と呼ばれてしまっている個人、一人ひとりとうまく付き合うことでもあるので、一人ひとりにしっかり周囲が向き合っていくことでしか解決できないようにも感じます。
誰でも自分が大事にされていると感じられれば、優しくされれば、少なからず嬉しいはずです。
そのようなポジティブな感情が与えられなければ、年齢がそれなりになっている高齢者だって、ひねくれるのは当然なんじゃないかなー、とも思います。
【C】同年代の高齢者にも嫌われているような特徴があるのだとしたら、その個人や世代特有の事情が背景にある可能性。
恐らくこの「老害」と呼ばれている世代の方々は、戦時中、または戦後直後に生まれたり、幼少期を過ごしている方々だと思うのです。
となると。
無意味な我慢、根性論を若い時に強いられてきた世代なら、今の年齢でこのような状態になってしまうのは当たり前なのかもしれないとも思えます。
ツイッターにも書いたことを貼り付けます。
ずっと若い頃に納得せずに「そういうものだ」と抑圧されて、他人が描いた「理想」と言われるレールの上を渋々歩いてきて、年齢でそこから外され、報われた経験がなければ、世間に八つ当たりしてしまうの、当たり前だと思う。個人の問題じゃない側面、多いと思うけどね...。
— 輝凛(きりん) (@key_ring_kaoru) March 14, 2016
自分は世間の、社会の、周囲の、親の…、などなど、様々な自分を「守ってくれる」と信じていた人やものの言うことを聞き、信じて行動してきたけども、自分の気持ちは実はそれと違っていた。
それでも自分を出すと、世間では、社会では生きられなくなってしまう、生活が出来なくなってしまうかもしれない。
その恐怖に打ち勝ってでも、自分の思うような社会を手に入れようとするくらいなら、せめて会社勤務のうちは、立場が低いうちは「我慢」をしよう。
そのように生きてきた人が多い世代かもしれません。
その世代の価値観は当然、下にも引き継がれていくので、特に何かに対して真正面から対抗してでも、自分の世界を求めて行こうとした経験がない人であれば、同じような価値観を採用して生きているのではないでしょうか。
その結果、何かが「報われた」のであればいいのだけども、ほとんど何も報われなかったような方々は、どうしても、どこかで八つ当たりを起こすと思うんです。
人はどこかで「自分」を出すために、自分が納得した時間や人生を手に入れるために、多かれ少なかれ、大なり小なり、周囲に抵抗する必要があるのでね…。
それを、現役世代にやってこなかった人たちが、高齢者になって「もう老い先も短いし、仕事に影響が出るでもなく、子供達も結婚したのだから、失うものは何もない!」と、吹っ切れたように、世間や社会に対して抵抗をしまくっているのが「老害」の正体なんじゃないの?と私個人は思っています。
そうなると、これは昔の社会の価値観の「負の遺産」でしかないと思うのですよ。
個人の問題じゃないよね、と。
社会的な価値観に従った結果なので、つまりは今になって「老害」なんて言われるような覚えはないくらいに、生きるために、社会に対して従順に従ってきた結果なのだろうと思うのです。
そうだとすると、「老害」と呼ばれてしまっている世代は、生きるために、自分を認めてもらうために、自分の価値観とは違うけども、周囲の言うことを長年聞いてきた結果、疲れてしまった。
そんな社会に対しての八つ当たりが「老害」であり、社会が若い頃の彼らたちを食い物にした「ツケ」が、歪みとなって現代社会に出てきたのではないかしら?と思えるのです。
仮に上記のような状態が背景にある「老害」だとしたら、今の時代、現役で最前線で活躍している方々の一部にも、「老害候補」になってしまっている働き方や考え方をしている人も多いんじゃないかしら?と思えてなりません。
「老害」は本当に「個人の問題」?
上記のような3つの観点で私は「老害」という現象を捉えてみました。
もちろん、このどれかに全員が当てはまるでもないし、別のケースもあるようには思いますが、少なくとも私の感覚と経験では、上記のようなことが思い当たりました。
この3つから見ていっても、やはり「老害」というのは、個人の問題では片付けられない、歴史だったり、時代の背景、急激すぎる価値観の変動、生活スタイルの変化などなど、様々な影響があるように思えてならないので、一概に、横暴すぎる高齢者の方々に対して、「どうにかなれ!」とは言えないように感じています。
そして、先述のように今の仕事の仕方や考え方が、実は「老害候補」になってしまっていそうな人は、実は多いんじゃないかな、と思えるんですよね。
同じように「頑張って」人生を過ごしていくなら、どうせなら楽しく生きたいものです。
頑張り方、頑張る物や方向を間違えたくないですね。
そして高齢者になっても、周囲といい関係を構築して、穏やかに過ごしたいものですよね。
そういえば、「若き老害」を謳っている、常見陽平(つねみようへい)さんは、私と同い年の方です。
このブログ記事も、十分に「若き老害」な傾向なのかなぁ(苦笑)?
参考までに、常見さんのブログのリンクを貼っておきます。
0コメント