人生は「物語」である~ユング心理学

カウンセラースクールに通い始めて4回目の授業の内容は「ユング心理学」でした。

これを受講しての感想は「誰しも人生は物語なんだなぁ」ということ。

ということで、復習も兼ねて、ブログに残します。


ユング心理学は分析心理学とも呼ばれていますが、カウンセリングにはあまり関係がなく、それでも心理学としては「心理学を勉強してこれを知らないという人は、にわか知識でしかなく、絶対に勉強なんてしてない。知らないのは恥ずかしい」とさえ言われる、本当に超基礎的な心理学の考え方です。

なぜ、カウンセリングにあまり関係がないかというと、これを知ったところで「へぇ…!なるほどね!…で?それで…?」という話にしかならないから。

身近なところでは「心理テスト」とか「占い」とか、それに近しいものかもしれないです。

それでも、人の心の捉え方としては必要な考え方だったりするのです。


このユングという人は、精神分析で有名なフロイトのお弟子さん。でも考え方の違いから決別して、独自の理論を提唱していきます。

フロイトは、人の心は「意識」「前意識」「無意識」というもので構成されている、と提唱した人。興味のある人は以下のページなり、図書館で本を探して下さい。

そしてユングは、この「無意識」については「個人的無意識」「集合的無意識(普遍的無意識)」がある、と提唱しました。

「個人的無意識」は、人それぞれに無意識(ここでいう無意識は自分自身では感じ取ることが出来ない、認識も出来ないものなので「そうやって無意識に感じてしまったんだよね」という状態は「意識的である」と認識され、無意識とは言わないそうです)の領域にある内容は異なります。それぞれの人生や環境などは違うので、それは当然のことだというのは、容易に想像がつくと思います。

私が「面白いなぁ」と思ったのは「集合的無意識(普遍的無意識)」の方ですね。

これは人類全体が共有しているであろうと考えられる普遍的な心のこと。

ユングは個人の夢や空想に現れる、ある種の典型的なイメージが様々な時代や民族の神話にも共通して存在していることを発見します。そしてこれを「元型」と呼びました。


元型の話に行く前に。

たとえば、日本でいうと、土偶や埴輪。

今や日本は東京⇔大阪も、新幹線で数時間で行かれますよね。そして遠くにも人が住んでいることも知っていて、その土地の文化や名産品も知っています。

が、縄文時代や弥生時代。

自分たちと同じような人類が、自分たちが歩いて辿りつくことが出来ない場所にも「いる」なんて、誰も知らなかったと思うんですよ。

それでも、ほぼ同じような時代に、似たような土偶や埴輪が日本各地で出土されています。

これは「こういうの、作ろうぜ!」と申し合わせをしたのではなく、場所が離れていても、会ったことがなくても、その存在を知ることがなくても、普遍的に無意識に存在しているものがイメージングされて形になったものだと思えませんか?

他にも。

ヤタガラス(三本足のカラス。天照大神の使い)、ガルダ(インド神話に登場する炎の様に光り輝き熱を発する神鳥。)、フェニックス(死んでも蘇ることで永遠の時を生きると言われる伝説上の鳥)と、地域が違っていても「鳥」という動物に、何かしらの神聖性を持たせているという、人類全体の共通点。

これも「鳥って神じゃん?」みたいな、申し合わせがあったのではないですよね?

(もう、自分で書いておきながら、こんなこと言うヤツがいたら「わ…、中二でしかないわ…」としか思えない…/苦笑)

このようなことをユングは「集合的無意識(普遍的無意識)」と呼びました。


ペルソナ

またまた「元型」に行く前に。

「ペルソナ」って聞いたことがある方、多いと思います。

ゲーム名でもあったし、HITACHI社のPDAにもありましたよね(PDAが出てくるのは完全に私の趣味・趣向でしかないけど…)。

心理学における「ペルソナ」とは何かというと、一言で言えば「仮面」です。

社会の中で生活していく中で、その集団、社会に適応した態度って求められますよね。

その時に、その場の役割にふさわしい仮面をかぶっています。それを「ペルソナ」と言います。

親の前では「子供の仮面」を、会社では会社の仮面、友達と一緒の時の仮面。その場や相手に合わせて、かぶる仮面を変えています。

これ、とっても健全で超・健康的な心理状態で「当たり前」なことなんですよ。

思春期とかだと「なんだか本当の自分が分からなくなる…」と思えたり「誰かに対して嘘をついているみたいで気持ち悪い…」と悩むかもしれないのですが、その葛藤を乗り越えていくことも健康的な話。

この「ペルソナ」を自由に付け替えたり、脱いだりかぶったり出来ることが大切なんですよね。

心が不健全、不健康的だと、このペルソナが付け替えられないんですよ。

たとえば、親が学校の先生で厳格で立派なのに、子供がもうどうしようもなく悪さばかりする、非行に走るという状態、結構「あるある」ですよね(^^;

これは家庭内においても親が「親」というペルソナではなく、「先生」というペルソナで子供に接してしまっているからで、子供にしてみたら「親」という存在がいない状態で育ってしまっているんですよね。

だからこそ、親から与えられるはずの愛情が受け取れないまま育ち、何だか満たされなくて、非行に走ってしまう結果になっている可能性もある、ということです。

子供の不健全は、どこか親の不健全の反映でもある可能性がある、ということです。


代表的な元型

ここで先ほど「集合的無意識(普遍的無意識)」の中で紹介した「元型」が出てきます。

この代表的な元型は、アニメやファンタジー、神話、SFなどが好きな人だったら、「あ、あの登場人物はこれか!」と当てはめてみると、なかなか面白いと思いますよ。


シャドウ

人は社会で適応して生きて行くために、善人の「仮面(ペルソナ)」をかぶって日常生活を送っていますよね。

口では「嫌われてもいい」と言っていても、本音を言えば、理想を遠慮なく言えば「誰からも好かれたい!」って、ごく当たり前な話なので、その「好かれる」を目指せば誰でも善人のペルソナを被るはずです。

でもその過程で「持っていない方がいい」「認めたくない」と感じた自分の側面、つまりは性格のネガティブな傾向や、善人とは言い難い、善人とは両立しがたい傾向などは、意識から切り離されて「なかったこと」として封印してしまいます。

この封印された部分を「シャドウ」と言います。

物語で言えば「悪役」ですね。

が。善人がなぜ認められるかって、悪役がいるからですよね。

悪があるからこそ、善良が認められる。悪がないと、物語は成り立たないのですよ。

人の人生は、その人自身の物語でもあると思うんですよね。

ということは、この「シャドウ」はなかったことにしないで、「それも自分なのだ」と受け入れてしまうことで、人生に変容が始まります。

シャドウ目線で自分自身を見つめ直すことで、人生に幅と深みが出るんですよね。

いるじゃないですか、必要以上に優しくて、いい人。「気持ち悪いな」ってくらい、いい人。

でもそういう人って、多くのシャドウを内在していて、それを見なかったことにしている可能性があるので、腹の中、真っ黒だと思うんですよ(爆)。

で、その自分が「見たくない、見たくない」と思っている部分を見せてくる他人に腹が立ったりするので、「こいつ、嫌いだな」と思う人が多いはず。

さらに「善人」である必要があれば「嫌い」という感情すら押し殺すので、どんどん真っ黒な淀んだ感情が蓄積されていくのだろうから、どんどん真っ黒になっていく気がするんですよ。

が。

その「嫌い」という感情は、自分の持っている何かを投影しているからこそ、出てくる感情だったりもします。

「私はこういうことを我慢しているのに、あの人はそれを表に出せるなんて、ずるい!」とかね。

我慢なんて誰も頼んでいないんですわ。自分で勝手に我慢していることなんですよ。

その我慢をやめてみたら、案外気持ちが楽になって、「こいつ、嫌いだな」と思えた相手を好きになれるかもしれないんですよ。

それが「シャドウ目線で自分自身を見つめ直すことで、人生に幅と深みが出る」ということ。

もし、必要以上になぜか先延ばしにしてしまうことがある、強いネガティブな感覚を感じる人や事があるとしたら、自分のシャドウと向き合うヒントになるかもしれません。

「シャドウ」とされるものって、申し合わせもないのに、普遍的に「ネガティブ」「陰湿」「黒い」「どんよりしている」「しつこい」「角が映えている」「湿っぽい」「怒りっぽい」などのイメージが出てきませんか?


グレートマザー

温かく包み込むような優しさや、弱く幼い者を力強く保護する母性的なものを表す元型。

「母親」のような存在ですが、母親のイメージは、成長や豊かさを促して行く「光」の側面だけではなく、神秘的な威厳と不気味な暗黒を内在させ、全てを呑みこんでしまう「闇」の側面を併せ持っているため、グレートマザーの本質を一義的に「温かく包み込むような優しさ」とは断定できません。

「光」のイメージとしては、聖母マリアが、「闇」のイメージとしては、グリム童話に出てくるような「魔女」が挙げられます。

母親が持つ「闇」って、たとえば「言うこと聞きなさい!」だったりで、子供を支配しようとしたり、コントロールしようとするところかな、と。

たとえば、シンデレラの継母のように「自分の娘のために、シンデレラは奴隷のように扱おう」とするようなところにも出ているはずで。自分が生んだ娘には「光」でも、シンデレラには「闇」なんですよね。


アニマ、アニムス

「アニマ」は男性の無意識にある、女性的な傾向や、理想の女性像。

「アニムス」は女性の無意識にある、男性的な傾向や、理想の男性像。


傾向でいうと、「アニマ」なら、男性が可愛いらしいキャラクターグッズを好むことや、メイクやスカートなどに興味を持つことなど(自分が大好きな、どっかのバンドしか思いつかないな、これ…)。

理想像でいえば、セクシー系なら、ボンドガールとか、「ルパン三世」の峰不二子などで、清楚系なら「ロミオとジュリエット」のジュリエットなど。

大して「アニムス」、女性の中の男性的な傾向でいうと、「男の世界」と呼ばれているような職種に憧れを抱いて挑戦をしていくこと(ドライバー、大工など、女性の方も活躍をし始めていますよね。政治家もある意味そうかもしれません)、スカートを「気持ち悪い」と履きたくなかったり、自分のことを「僕」「俺」と呼んだりすること、など。

理想像でいえば、スーパーマンだったり、「財力とルックスの象徴」とも言える、白馬に乗った王子様ですね。

これも、特に誰とも申し合わせもなく「うん、分かる!」という感覚があると思いますが、いかがでしょう。


老賢者(オールドワイズマン)

老賢者のイメージをとったり、絶大的な破壊力を持つ、自然神や偉大な権力を持った伝説的な王のイメージをとったりするが、オールドワイズマンの元型は、人間の自我や能力を超越した絶対的な叡智・勇気・権威・洞察力を持った存在として現れます。

また、人生の困難な状況を打破するキッカケを与えてくれたり、精神的危機の状態においてどのような行動をすればいいのか、人生の指針を教えてくれたりすることもあります。

中国での「仙人」だったり、「太公望」だったりが、このイメージではないでしょうか。

あとは「ロード・オブ・ザ・リング」でいうガンダルフ、「スターウォーズ」のヨーダなども、このオールドワイズマンが当てはまるように思います。

覚えているかどうかは別として、夢の中で「啓示」を受けたのだとしたら、きっと夢の中での啓示はオールドワイズマンのような風貌の人から伝えられるように思いませんか?


トリックスター

悪戯者、ペテン師、しかし固まった価値観を壊して人々に、笑いと創造をもたらす者。

トリックスターの元型の機能とは「破壊からの創造」であり、物語というのは、何かが壊れるからこそ、発展して面白くなっていくんです。人生もそれと同じです。

「創造→維持→破壊→創造…」の循環構造を生み出し、社会や人間の進歩発展に寄与するものです。

アニメなどの主人公に多いですね。ルパン三世や一休さん、「ワンピース」のルフィーなどでしょうか。


人生は「物語」である

と、カウンセラースクールでの講座内容をまとめてみました。

これ、まだまだ一部分で、他にもあるのですが、性質が異なる内容なので、それは別の機会に。

上記の「代表的な元型」というのは、自分が持っている性質もあれば、自分の周囲にいる人にも「このタイプだな…」と思う人がいると思うんです。

そして、この代表的な元型にあてはまる登場人物が出てくるアニメ、映画、ファンタジー、神話、SFなどって、魅力的じゃないですか?「面白い!」「深い!」と思えるものって多いと思うんです。

私がすぐに登場人物が浮かんだのは、「ドラゴンボール」「ロード・オブ・ザ・リング」「レ・ミゼラブル」ですね。

ああいう物語って「人生の縮図」を見ている感覚になること、ありませんか?

それって正に色んな「元型」が登場しているからで、自分の心の内側や、自分の人生や環境など、自分の何かしらが様々な登場人物に投影されているからなんだなぁ、と思えました。


そう思うと、やはり人生は物語であり、その物語を作って行くのは他でもない自分自身なんだな、と。

それを楽しくするには、自分の色んな部分を受け入れて行ったり、認めて行くことで幅が出てくるだろうし、自分が持っていない部分はそういう性質を持った人を近くに置くことでも、幅が出るのだろうし。


人は一人では生きて行かれない、そんな、登場人物が1人しかいなく、誰とも関わらないような、つまらない物語、誰が見るかよ!っていう話で。

「桃太郎」だって、「鬼退治」というシャドウとも言える「鬼」に対して、鬼退治という大義名分があるからこそ、きび団子を渡した犬・猿・キジもお礼として頑張ってくれて、そしてじいさん、ばあさんが待つ家に帰還するわけで。

これでシャドウの鬼がいなかったら、「じいさん、ばあさんが作ってくれたきび団子を犬・猿・キジにプレゼントした」っていうだけの話にしかならんでしょ?

つまらんでしょ、そんな話(^^; 語り継がれたら奇跡だわ。


そう思えば、自分のあらゆる性質を「イヤだなぁ」と思いながら「こういう面を持っているのも私なんだよねー」と認めてしまえばいいのだと思います。

「イヤだなぁ」と思っても好きになる必要はなく、「イヤだなぁ」のまま「でも私なのよねぇ」だけでいいと思いますし。

そして、シャドウを認めるだけに限らず、様々な元型というものがあるので、自分にはないような性質(元型)を持つ、自分とは「違う」ような人たちと交流していくことも、人生の幅と深みに繋がると思うんですよ。

自分と「同じ」人とだけ付き合ったり、自分のいい面だけを見て、そこだけ出して行き、黒歴史を晒せないことのつまらなさっていうのかな。それは前から漠然と感じてはいたけど「なぜ、つまらないのか」ということが、私なりに腑に落ちた講座でした。


さらに「ペルソナ」。

これも相手に対してどのような仮面で接するのか。

この仮面が相手に求めるものと相手が被っているものが違ったりすると、寂しかったりするし、誤解されることもあるだろうし、やっぱりどこかうまくいかないんだろうな、と思えたり。

あと、その相手に対してどの仮面で接したらいいのか分からないという時もあるのだろうな、とも思えたり。

そして、その付け替えることはごく当たり前で自然なこと。決して「装っている」のでも「態度を変えている」のでもなく、健全なことだということも、何だか私の安心感にも繋がったというか。


「ペルソナ」と「元型」。これらの特性を理解して、うまく自分の人生、生活に活用していきたいですね。

輝凛(きりん)の独り言

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