「損得」という価値観
最近、ずっと気持ちの中で「うーん、何で平行線なんだろう…」と思えることがあって。
別に平行線となっている相手に対して、和解や理解を求めるつもりは一切ないし、本当に私にしてみれば「関わらないでいたい」方々ではあるけど、その彼らのような「傾向」になる人たちの心の内側にあるものと、私や私と近い感覚の人たちとの「違い」って何だろう。
そういうことをずっと考えていて、気づいたことがあったので、備忘録としてブログに残します。
行動の「動機」
たとえば、新しく何かを始める時。
何か自分が求めることがあり、それを得ようとするために、行動をすると思うんですよね。
そしてその「得たいもの」の種類は、同じ行動であっても、人によって違いますよね。
たとえば、私はライブに行くことが大好きなのですが、そこでストレスを発散する人もいれば、ライブでの生の演奏を見ることで、憧れのミュージシャンのプレイスタイルを勉強したいという人もいます。
普段は大きな音量で音楽を聴くことが出来ないので、音の大きさを求めて、それを楽しみたくてライブに行く人もいます。
同じ「ライブに行く」という行為でも求めるものが違うのは当たり前のように、様々な行動の1つ1つ、すべてにおいて「同じ行動であっても、求めるものは人それぞれ」なのです。
でも、残念ながら世の中にはその「人によって違う」ということが理解できない人が意外と大勢います。
そして、それが「違った」と気づいた時に、「騙された」と自分の思い違いを他人のせいにして、自分の価値観を死守するために、他人を攻撃する人も、残念ながら多く存在します。
多くの人間関係のトラブルは「自分との違いを認められない」ことで発生すると私は感じています。
損得という価値観
どうも、最近のニュースに限らず、様々な情報を見ても、そして、日本に限らず先進国の多くが「損得」という価値観で動いているように、最近すごく感じています。
得ということ以上に、「損」を見て行くと分かりやすいのかもしれない。
「損したくない」となると、得を求めますよね。
そうなると目的が「得をすること」になってしまう。
その先、何があるんだろう…。得をすることの意味って何でしょう?それが私には分からないんです。
では「得をしたい」ということを求めるとします。
なぜ「得をしたい」のでしょうか。
それは人それぞれなのですが、突き詰めて行くと最終的には「心地よさ」があると思うんですよ。
でも、本当に「得」をしなければ、心地よさって得られないのでしょうか?
そう思うと「得をしたい」とか「損をしたくない」ということが、行動の動機になっている、つまりは損得が目的になっている意味が、私には理解できません。
でも、多くの人は「損得勘定」が働いて、物事を判断しているのではないか。
多くの人の一番の価値基準は「損得」なのではないか。最近そう思えました。
確かに、生活のため、自分が生きて行く最低限で、自分が割を食ってまで他者のために動く必要はないので(本人が納得していれば、やぶさかではないけども)、そういう意味で、自分を守るために働く「損得勘定」というものは絶対に大事ですよ。
でも、行きすぎた損得勘定はいかがなものかと思えるんです。
いい収入や立場が得られない仕事や活動など「意味がない(=価値がない)」と思ったりするのは、行きすぎた損得勘定だと思うんですよね。
そして、自分がそれを得られると何かで思い込み、得られないと気づいた時。
人は自分が信じた価値観を覆られると、動揺しますよね。
分かりやすく言えば、憧れていた相手の意外な一面を見てしまい幻滅した時に、目の前にある事実を受け入れられず、相手のせいにして「そんな人だと思わなかった」と言ってしまうこと、ありませんか?
それ同様、特に損得勘定を第一の価値観として行動動機としている人たちにとっては、自分が得られると信じたものが得られないと分かった時に、自分の思い違いなどを認めることが出来ず、相手のせいにして「騙された」と言ってしまうのだろうと思えました。
生活・人生の基盤とは
私自身は、生きるために必要な損得勘定も勿論持ち合わせているし、それが判断基準になるシーンだって勿論あります。
でも、一番大切にしている基準は「心地よさ」であり、その先に私が本当に得たい感情は「安心」であり「安全」であるとも思っています。
トラブルがない、リラックスできる、穏やかでいられるって安心だし、そういう環境、大抵が安全ですよね。
それが私が一番求めている価値観なのだろうと、最近、言葉としてやっと出てくるようになりました。
そして、一番大事にしたい価値観こそ、自分の生活・人生の基盤だと思うんです。
その、自分の生活・人生の基盤守るために働くのが「損得勘定」じゃないかな、と思うんですよ…。
でも、上記のように、何でも損得勘定で判断してしまい、それが絶対的な価値観になってしまっている、行きすぎた損得勘定を持つ方たちって、自分の思い違いを認めることが出来ずに「騙された」と言って騒いだりしますよね…?
つまりはトラブルメーカーになりやすいのだろうと思えるんです。
それって「安心」でも「安全」でもない、むしろ、それを脅かす行為であり、安心や安全を守るということとは逆の生き方なので、やはり行きすぎた損得勘定というのは、生命体として何か間違っているサインでしかないように思えます(表現として大きく出ました)。
損得を強く求める人は、他人の話を聞けない
これも何となく思うことです。
行きすぎた損得勘定に振り回されている人は、どんな時も「それは自分にとって得なのか。損をしないのか」という基準で物事を判断するため、自分が理解できないものに対して価値を感じない(得を感じない。理解のための勉強などの行動が損だと思う)のでしょう。
そうなると、相手の話なんて聞いているようで、全然聞いてないんですよ。
すぐに忘れちゃう。
自分にとって都合のいいことだけは覚えているけど、そうではないことは全く覚えてない。
そしてその自分にとって都合がいいことも、「自分が得られるのはこんなこと!」として、頭の中で勝手に置き換えをしているので、相手から聞いた話(=最初の事実)とは違う、作られた事実(=歪んだ認知であり、妄想と呼ばれる)としての話になっているって、残念ながら「あるある」話なんですよね…。
そりゃね。
そりゃ、自分の頭の中で作られた話は「妄想」になっている可能性があるので、事実を改めて相手から聞いたら「騙された!」ってなるでしょうね…。
一切騙されていません。
自分の旨味、メリットだけを勝手に想定して、思考が勝手に進んだ結果、思い違いをしていただけです。
でも、損得を価値観に生きていると、「謝ることは割を食うことだから損だ」として、人に対して謝れないんですよね。
そして自分の落ち度も認めない。徹底して「私は悪くない!」となり、挙げ句「私こそ、被害者だ!」と言い出すこともあるでしょう。
上記は、想像がしやすいように書いた「例」なので、極端な例に感じるかもしれませんが…。
そのような感情が表面化する行動、他人を攻撃する形になることもあるでしょう。
自分の正当性を訴えたい、被害妄想に駆られている人はこのような行動になるかもしれません。
でも、「トラブルを起こすと、自分が悪く見られる。それは損だ」と思う人もいるでしょう。
そのような人は、自分の気持ちを抑圧しているため、表向きの行動には出ないけど、内面としては同等の感情(被害妄想)を持ち合わせているため、表向きは穏やかでも、実は他人を強く妬んだり、恨んだり、損ばかりする自分を蔑んで、自分は無価値だと、その攻撃性を自分に向けてしまっている可能性もあります。
そうなると「騙されたくない」、言い換えれば「損をしたくない」と思うあまり、警戒心が強くなると思いきや、基本的に「人の話を聞けない」し、「損得」で判断する価値観はそのままなので、残念ながら、また勝手に騙されたと思うこともあれば、本当の詐欺に遭って、身ぐるみを剥がされることも起きてしまう可能性を自分で作ってしまっているようにも思えます。
目的を整理しましょう
損得勘定を持つこと、それが価値基準になることは、決して悪いことではないですが、それが行きすぎると、上記のような悲劇が待っている、というか、自分でその道に向かって急ぎ足で進んでしまう可能性があると思えます。
そうならないためにはどうすればいいのか。
これは最初にも書いたことですが「何のために得をしたいのか」ということを、しっかり自分の言葉で言えるようになるまで、自問自答していくことです。
さらに「その得をなぜ求めるのか」「別のものを求めることで、なぜ得が得られないと断言できるのか」など、どんどんどんどん、自分にとって「得」とは何であるかを突き詰めて行くと、本当は得ではない別のものを求めていることに気づけるはずです。
とことん、自問自答をノートに書き出してみることです。
そして最終的に求めていたものは「得」というフィルターを通さないと本当に得られないのか。それもしっかりと自問自答をして、それをノートに書き出してみることです。
何かを求めるということは、何かを欲するということは、それを得た先のことまで考えなければ得る意味がないんです。
適度な損得勘定なら、人生を豊かにするのだし、それが一番の基準になっていても、何の問題もないと思います。
何事も「程度」の違いで、幸にもなり、不幸にもなると思っているので。
人生は思っているよりも短いと思いますよ。
意味のない、目的のない、行きすぎた損得勘定に振り回されているヒマはないと思えます。
折角生まれてきたのですから、実の詰まった、意味のある快適な人生を歩みたいと思いませんか?
私はそう思えるようになりました。
なぜ、結婚したいのか。
なぜ、就職したいのか。
なぜ、進学したいのか。
様々な「なぜ」に対して、しっかり「私がこうしたいからです!」と、胸を張って堂々と言えるようでなければ、自分の人生を楽しいものには出来ない。
それがあれば、どんな妨害だって気にならない。
これは私が自分の意思で進学先の高校(商業高校)を決めて、その高校でイジメに遭ったけども「私は理由があってこの高校に来ていて、あなたたちと仲良くなることが目的ではない。嫌われても勉強は出来る!」と割り切ったため、イジメごときで不登校にならなかったからこそ、言えることです。
お陰さまで、勉強に集中できて取得した資格を武器に、その高校初の4年制大学への進学を果たしましたよー♪
全くツラくなかったといえばウソになりますけど、でも、大した話じゃなかったなぁ、今思えば。
全く心の傷にはなっていません。
そんなもんです。
些細な「なぜ」と、しっかり向き合って自分が求めているものを知ること。
そしてしっかり自分の意思で決めて、行動をしていくことこそ、自分の人生を作り、そして守る。
私はそう思っています。
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