なぜ、カウンセラー講座(心理学)を勉強しはじめたのか
私は毎週水曜日に、カウンセラースクールに通っています。
そこで得た知識や気づきなどを、日常に活かし、ツイッターやこのブログでも何かしらで、どこかの誰か(誰でもいいんですけどね)に伝わればいいなぁ、プラスになればいいなぁ、と思い、発信をしているつもりでいます。
何でそんな勉強をしはじめたのか、書いておこうかな、と思います。
興味がある方だけ、そして心理学やカウンセラーに興味がある「同志」になるかもしれない方々も、参考程度にお目通し頂ければと思います。
結構長いけど、今、対人トラブルを抱えている人の参考にもなれたら幸いです。
勉強をしていて気づいたこと
スクールに通う前、独学でも少し勉強をしたのだけども、カウンセリング…、心理学を勉強していくことになるのですが、人の心というのは、その人の行動指針になり、判断の元になり得ることに気づきました。
この判断に迷うことが「悩み」「不安」だったり、何かしらの不快感を覚えることが「怒り」「不満」「悲しみ」だったりしますよね。
その結果、思いつめて自殺をする人もいます。
そこまでいかなくても、精神的な疾患(これは心の病気ではなく、判断の機能が異常になる脳の暴走状態なので、本質は脳の病気です。判断機能が正常ではない状態の時があるため、気持ちの持ちようでどうなるものではない症状になっていくこともありますから、かける言葉には細心の注意が求められることもあります)や、またはその人の生育環境の影響というか、様々な要因で心の成長が止まってしまっていて(または精神状態が退行して)、結果、周囲(世間)と折り合いが合わずに問題行動が深まって行く「人格障害」という状態になっている、または、なってしまう人もいます。
ここまでは、ご自身の経験や周囲にそのような状態に見える方がいらっしゃるなども含めて、どんな方々も想像は出来ると思います。
カウンセラーは人の悩みだったり、気持ちの不調を整えて行く役割がある仕事です。
つまり、人の心をケアするということは、その人の人生に介入をしていくことにも繋がる可能性が多分にして考えられます。
つまり、こちらの判断や、伝える言葉の誤り(相手側の認識の齟齬なども含める)がきっかけとなり、その人にショックを与えてしまったら、その人の状態が悪化することもあるため、カウンセリング行為とは、その人の命を預かる医療行為にも準ずるものではないか、と独学で勉強をしながら感じました。
事実、カウンセリングが日常の生活の中に当たり前に馴染んでいる欧米では、医者と待遇も変わらない、とってもお給料が良いお仕事なのだそうです。
が、日本ではカウンセラーという看板だけで生活が出来ている人はほんのわずか。
さらに民間資格しかなく、一定のカウンセラーとしての基準がないこともあり(現在、国家資格として制度化される法案が可決され、法整備されていく最中のようです)カウンセラーの質もピンからキリまでと言われていて、もう20年以上、「日本人の自殺率が高いままのは、カウンセラーという職業がその役割を果たしていないだけではなく、むしろ、自殺に繋がるような仕事の仕方をしてしまっているのではないか」と言われているそうです。
実際、自殺に関しての訴訟問題になっているカウンセラーも多く存在すると聞いています。
それを聞いて益々、独学のまま、民間資格を取得してカウンセラーの看板を掲げてしまうのは危険だし、自分の仕事の責任として、どこまで持ち切れるのかという疑問を感じるようになりました。
それもあり、「しっかり専門家から勉強して、自分のカウンセリングを指導してくれる人と出会う必要がある」と感じて、現在のカウンセラースクールと出会うことが出来て、通学をしています。
やっぱりその選択は正解だったと感じることは多いです。
そのスクールでは「日常の中で心理学を活かし、自己研鑽に繋げて行く」ことが大きな目的です。
なぜかというと、「自分の心のケアが出来ない人は、他人の心のケア、面倒を見ることは出来ない」ためです。
まずは、カウンセラーへの第一歩として、自分を育てることが目的なんです。
そのツールとして、心理学を学んでいるというのが、正解かもしれません。
私に起きたこと
私がカウンセラーを志したきっかけ。
結論から言ってしまえば、対人トラブル、もっと言ってしまえば、恋愛トラブルがきっかけでした。
相手のあることですし、具体的には書けないのですが…。
いずれにしても、今までの自分の恋愛が上手く行かないように感じることが多くて、「何度も同じような痛みを味わうのは、今回も相手が悪かった、ということではなく、自分自身に問題があるのではないか。だってそれぞれの恋愛の揺るぎない共通点は私という存在だもの」と感じるようになり、恋愛専門のカウンセリングに相談をしてみたのが、本格的なカウンセリングと出会えたきっかけでした。
その結果、感じた事。
その彼の様子を見ていると、そして色々と改めて振り返ってみたら…。
「こいつ、ロクな人間じゃないな」と、人間的に好きになれる要素が見つからなくなっていきました。
でも「根はいい人なんじゃないか」という、今振り返れば、「そう信じることで自分が救われたい。過去の自分の判断を正当化したい。自分を否定したくない。」というだけの、どうでもいい、非常に安っぽい自分のエゴに気づけないまま、ずるずると時間が過ぎて行ったようにも思います。
なかなか自分の気持ちが整理できないままだったのですが、「そんな、ロクでもない人間に惹かれた私も、実はロクでもない人間なんじゃないの?どこか似ているものがあったから、惹かれた。私にもやっぱり問題があるんじゃないのかな?」と思うようになり、彼への気持ちは一旦忘れて、「自分は何者なのか。これから先、自分はどうなりたいのか。自分は何を欲しているのか。」などなど、自分の内側に気持ちをフォーカスしていくようになりました。
結果。
自分が本当に求めていたのは、その恋愛トラブルになった相手そのものではないと気づけました。
彼である必要は一切ない。他の誰でも持っている要素を、たまたま彼に見出しただけで、彼は唯一無二ではない以上、気持ちを傾けたり、復縁などを目指して追いかける必要性は一切ない。
そのように思えるようになりました。
カウンセラーを志すようになった理由
でも…。
彼は何で、私にあんなことを言ってきたのだろう。
なぜ、あんな生き方をしているのだろう。
彼は何を求めているんだろう…。
折角生まれてきたのに、本当に人生を楽しんで生きているのだろうか。
私が彼の中に、自分の問題を見出したよう、彼の中には、何かしらの問題があるのではないか。
そのように感じるようになりました。
直接会話をしたでもないし、憶測、その可能性である領域は出ないことですが…。
その相手には様々なネットストーキングをされていた可能性があり、教えてもいないメールアドレス宛に脅迫メールを受け取ったことが複数回あり、思い切って警察にも相談に行ったりもしました。
相当な状態のようで「あなたの判断次第でいつでも手錠をかけられる」とまで言われました。
が…。
情をかけたことがある相手だから、彼を変えたいから、という意味ではなくて…。
誰しも間違いは起こしてしまうので、「なぜ」その間違いが起きてしまうのかというメカニズムを知っておくことで、私が相手に対して「恐怖」を抱くことは防げるのではないか。
何かの問題解決をする前に、その問題を私が「問題」と感じずに、「あー、なるほどね」と理解できてしまえば、相手の行動(攻撃、嫌がらせなど)に怯えることもなければ、振り回されることもない。
上記のように思えるようになったのは、カウンセリングを受けていたことも手伝ってか、比較的冷静に起きていることを捉えることが出来たのかもしれません。
「手っ取り早いかもなー」と思って、この本を読みました。
ちなみにストーカーというのは、恋愛関係、男女関係に関係なく「付きまとい行為」全般を指しますので、多くの対人トラブルにも置き換えて考えることが可能です。
「ストーカー」というのは、誰にでもなりえる話で、決して一方的な関係ではなくて、お互いにストーカーになってしまうことだってあると感じました。決して異質でもなければ、異常でもない。
彼らは彼らなりの、自分が「正しい」と信じ込んだことをしているんだけど、何だろうね、その程度が全く分かってない…。自分が求めるものだけが「正解」だと信じ込む視野の狭さこそ、トラブルの原因なのだな、と痛感しました。
それはストーカーに限らず、多くの対人トラブルで言えると思ったんです。
自分が求めるものだけが「正解」だと信じ込む視野の狭さ。
そして、これが行きすぎると「犯罪」になってしまうんだな、と…。
ストーカー行為も今は犯罪として扱われますが、やっぱりそれ以上に「殺傷事件」に繋がってしまうことは、被害者もそうですが、加害者だって不幸になりますよね。
そして被害者、加害者の周囲だって不幸になりますよね…。
誰の人生にとってもプラスにならないんですよね…。
ふとニュースを見ると、事件に残忍さやおかしさが分かりやすいためなのか、この手のニュースがここ最近は結構多く報道されているようにも感じます。
そこに対して、倫理観だったり正義感を出して「こうあるべき!」と論じても、何の意味もないんですよ…。
そんなん、事件を取り上げて、キレイなことを言っている自分に酔っているだけで「自分はキレイな人間です」って言いたいだけだろうな、と思えるので、正直、反吐が出ます。
「ストーカーの加害者だって、心に痛みを抱えているんだよっ!」と言いたくなることもあります。
私もやってしまった犯罪、行動は全面的に否定します。
でも、テレビのコメンテーターやSNSで見られるような、犯人のその人格まで否定されるような表現は、相手の人生から「更生」だったりの可能性を奪いかねないので、結果として再犯にも繋がりかねない、その再犯に自分の発言が加担している可能性があると、なぜ気づけないんだろうと…。
と、そういう毒吐きは置いておいて。
このような「ストーカー気質」というのは、本当に誰でも持っている要素なので、それを自覚した人の手助けだったり、私のように被害に遭って、怯えて不安でたまらない人の手助けだったり、そういうことが出来れば…。
少しは犯罪が減って行くんじゃないか。
そこまで行かなくても、対人トラブルは減らせるんじゃないか。
それが実現できていけば、人をもっと信用出来て、助け合える社会が生まれてくるんじゃないか。
そう思うようになりました。
世界を、日本を、社会を変えるなんて、大きなことは出来ないかもしれない。
それでも、せめて自分の目の前に見える程度の、小さな世界は、個人のあり方でいくらでも変えられる可能性はある。
自分次第で、笑顔が増やせることだって出来るんじゃないか。
そのためには、自分の気持ちを大切にしながら、他者の気持ちも大切にしていく。
そして、色んなことで起きえる心のメカニズムをしっかり知っておくことで、他者を無用に傷つけることも防げるし、変に理解したつもりになることも防げる。
何よりも、自分が傷ついた時に自分の心をある程度癒せるような力をつけないと、傷ついている人の心のケアなんて、絶対に出来ない。
そう感じるようになり、独学を離れて、私自身をしっかり見てくれるような人に導いてもらい、セルフケアの可能性を広げて行こうと、カウンセラースクールに通うようになりました。
それでも聖人君子ではないので…
それでも私は当然、ただの人間でしかない。
聖人君子ではないので、嫌いな人もいるし、「こいつ、本当にクソだな!」と思える人とはしっかり線を引くし、こちらに対して思いやりも何の気持ちもかけてくれない人に対してなんて、優しくするはずがない。
私の優しさは質が高いので(笑)、出す相手は選びます。
安売りなんて、しないですよ。
でも、やはり人との距離感が計れない人は、私の出す優しさに対して「あの人なら優しくしてくれる」と期待するのか、近づいてくるんだろうなぁ、と…。
自分にもその優しさが与えられると勘違いしているんだろうなぁ…、と。
で、それが得られない、自分の期待外れだと、攻撃してくるのだろうな、と思っています。
…実際、そういう相手に恐らく現在進行形で攻撃されているようですが、全く興味もない、私の人生には関わりがない人たちだと思っているので、スルーしています。
そういう方々、自分たちが「誰かに構ってもらえる」ことを期待しているので、そのためなら、何でもしますからね…。
事実を正しく読み取れないまま、自分が捉えた誤った認識の「妄想」を「事実」としてしまったり。
とはいえ、その本人にとっては、それが事実なのですけどね。
ただ、それが世間の事実とは乖離しているから「妄想」と判断されるのですが…。
そういう方々にも、しっかりと「そうなってしまう」心のメカニズムがあるんですよね。
つまり、恋愛関係にもなったことがない相手から、ストーキング(付きまとい、執拗な攻撃)をされるメカニズムというか。
それをカウンセラースクールで知ることが出来たのは大きな収穫だったと感じています。
ネットトラブルも多い時代なので、こういう話も随時(気が向いた時に)更新できればと思っています。
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