TOKYO 1351 LIVE & TALK Vol.4に行きました
2018年1月6日(土)下北沢 風知空知で開催された「TOKYO 1351 LIVE & TALK Vol.4」に行ってきました。
端的に行ってしまえば、死刑制度の是非をカジュアルに問うような内容です。
ちなみに1351というのは死刑執行が行われる東京拘置所の住所(葛飾区小菅1-35-1)の番地とのことでした。
このイベントに行こうと思った理由は色々あるのですが…。
私はDIR EN GREYというバンドが、特にギタリストの薫さんが(我ながら異常だなって思うくらいに)大好きなのですが、彼が2015年10月~2016年12月までInterFMにてラジオ番組を担当していたのですが、この「TOKYO 1351 LIVE & TALK」でMCを担当されているジョー横溝さんがサポートDJとして出演されていました。
私はその番組でジョーさんを知ったのですが、ジョーさんの考え方や着眼点、発想、表現の仕方が好きだな、と感じていました。ジョーさんの取材対象として「××さんがおっしゃっていたことなのですが」と出て来る方々に私も興味を持っていた方が多かったのもあり、いつかジョーさんが出演される何かしらの公演にも伺ってみたい、と、ずっと思っていて。
昨年2月に、DIR EN GREYの薫さんのトークイベントが開催されたのですが、そこでもMCとしてジョーさんが出演され、終演後にお声掛けさせて頂いて、色々お話をさせて頂いた時に「ジョーさんの活動にも実は興味があるので、いつか公演にも伺いたいです」と社交辞令ではなく本音でお伝えして、そしてジョーさんには嬉しいことに「一緒に写真撮ろうか!」と、ジョーさんから写真撮影OKをしてもらえたのもあり、絶対に公演に行きたい、と、ほぼ1年経ってしまいましたが、やっと伺うことが出来たなー、という、完全に自己満足での参加。
そして、私自身がカウンセラースクールに去年4月まで通学していて、今でも心理学の勉強だったり、色々なニュースから感じることはあるのですが、やっぱり人間って、何かしら心に影があるのか、何かが不足していると不安定になるし、間違いも犯しやすくなると思えているんですよね。
その結果、犯罪を犯してしまい、その最大級の過ちが殺人だったり、死刑が確定されてしまうような犯罪なのではないかと思っているため、死刑制度の是非の前に、「人が極力、重大な犯罪行為に踏み込まないでいられるようになるには、人は、社会(その人が属するコミュニティー)は何が出来るのだろうか。そのためにどのような働きかけ以前に、心がけをしていくのが、最終的に『自分の周囲は犯罪が少ない環境である』という環境構築を個人が出来るようになるのか」ということは、数年前から感じることでもあって…。
また、年末にニコ生でのジョー横溝Ch.で、今回のイベントにも出演されていた弁護士の安田先生が「死刑を認めることと、戦争を認めることは似ている。自分の家族が犠牲になったら、相手を殺すしかない、という理屈は分からなくもないが、犠牲になる相手国家の国民にも家族はいて、死刑囚にも勿論家族はいる。そのような「自分の家族」という、とっても狭いコミュニティーの話だけで判断をしてしまい、他者の環境にまで配慮が及ばないという状態でいいのか、と思う」のようなことをおっしゃっていて、その言葉を聞いて、胸が痛くなったんですよね…。
正直、「よく、自分の気持ちが分からないな」って思ったんですよね。
死刑があることについて、賛成なのか、反対なのか、分からない。
そんな時にこのイベントを知ったので、「もう少し話を聞いてみたいな」と思えたので、開催前日になってですが、会場に予約メールを送り、当日は立ち見席で参加してきました。
出演者の方々の言葉はほぼ「意訳」で、その言葉通りの発言があったのではないので、予めご了承頂ければと思います。
また、内容は時系列ではなく、完全に私が思い出した順で、出演者の方々の発言内容よりも私個人の考えの記載の方が多いかと思いますので、そちらもご了承下さい。
失敗を許さない不寛容さ
冒頭に、ジョーさんから「死刑制度について、あなたの意見を遠慮なく、3つから選んで下さい。挙手で教えて下さい。あなたは死刑制度に『賛成』ですか?『反対』ですか?『分からない』ですか?」
私は「分からない」に挙手をしました。
出演者の方々は、死刑制度に反対でしたり、分からないというスタンスの方が多いです。
会場は「反対」「分からない」が多かったような印象がありましたが、世間の意見としては、8割方が死刑制度に「賛成」なんだそうです。
日本は職場から解雇されることも「首を切られる」と表現したり、武士社会でも「切腹」というものがあったりで、何か大きな失敗を犯したら「死んでお詫びをする」という文化が自分たちが生まれた時から当たり前に根付いている文化のため、「死刑はあって然るべき」という感覚の人が多いのではないか、という、安田先生の意見には「なるほど」とも思いました。
その安田先生は、多くの死刑囚の弁護人も担当されているそうです。
2016年12月19日に死刑執行された受刑者の犯行の経緯が紹介されました。
犯行時19歳だった受刑者。
こちらの記事にある内容と、直接死刑囚と関わって来ている先生とのお話は一部食い違うのですが、仲良くなった友達の家族を殺害した、とのこと。
記事を見ると押し入り強盗のようにも感じますが、実際はその、生き残った当時15歳の女性と仲良くなり、その女性が家族から虐待を受けていることを知り、「僕は彼女を救うんだ」と一家を殺害。当初は4歳の幼児は手にかけずに、3人で疑似家族のような生活をしていたそうなのですが、結局、その幼児も殺してしまった、とのこと。
このような犯罪動機、勿論殺人は許されることではないが、このような殺人動機であっても「死刑」という極刑が適しているのか、という疑問は私も感じました。
さらに記事をよく読んで頂ければ「あれ?」と、中学校までで最低限学習した「三権分立」が崩れていることに気づくと思うんですよね…。
再審請求中に死刑が執行されるというのは、おかしいですよね…?
このような死刑制度でも、本当に存続していいのでしょうか…。私はそれについては強い疑問を感じています。
また、犯罪当時が19歳ということもあり、「少年法」についての説明も。
平たく言えば。
人間は肉体的にも精神的にも「未成熟」な状態で生まれてきます。
そしてその生育環境によって人格が形成されていくのですが、その生育環境の何かしらの要因が背景にあり、健全に育つことが出来なかった場合、その未成年者による犯罪が発生してしまうことがある。
それは本人の問題というよりも、所属するコミュニティーに問題があるのだから、別のコミュニティーに本人を移して、更生をさせることで、人格形成をやり直して行きましょう、ということが、少年法の目的だ、ということでした。
これは、私がカウンセラースクールや独学だったりで心理学を勉強していても、強く思うことと、ほぼ一致していました。
たとえ成人をしていても、何かしらの問題行動、問題発言、異常性が見受けられる人がそうなってしまう理由は、その人が持つ素質だけではなく、生育環境の影響はとっても大きいと思っているので…。
そしてやっぱり…、人間というのは決して年齢に応じて自動的に精神的にも育って行くのではないので、何とも言えない点はあるのですけども、それでもやっぱり、所属するコミュニティーが「本人にとって」不健全な場所である場合、精神的な成長が止まる(脳の機能が停止することもある)可能性は高いように思うのですよね。
その結果、犯罪が起きてしまう、それが残念ながら殺人であっても、そしてこれも残念ながら何らおかしいことはないな、とも思えるので、やはりその「更生のチャンス」というのは、大人の責任、社会の責任として、未成年者(少年)に対して、国家が少年法というルールの元に責任を持つのが然るべきなのかな、とは思えました。
また、少年法は近年、対象年齢が引き下げられています。
理由は「少年犯罪の増加」のように言われていますが、実際は日本は年々殺人事件件数、少年犯罪件数ともに「減少」。なぜ、厳罰化されているのか、その目的が見えないという話でもあるように感じています。
出演者の森達也監督も、「少年法改正時、確か稲田さんが法務大臣だった記憶があるんだけど、彼女は弁護士出身なのに、なぜ適切なデータを出さずに嘘を付くのか、非常に疑問を感じた」とおっしゃっていました。
何となく私が日々感じていることなのですが。
クレーマー社会というか「こうあるべきだ!」のような、しょうもない理想論、それは本当に理想であり、理屈でもルールでも何でもない、個人の内包する「理想」でしかないことが得られないと他人のあり方を責める、また、他者の失敗を許さず、すぐに文句を言ったり、文句にはならないでも愚痴になったり。
そのような「不寛容」な社会が現代社会のように思えます。
きっと個人の気持ちの余裕のなさや、「私だって頑張っているんだから、お前も頑張れよ、ちゃんとやれよ!」という、これも個人の勝手な行動の価値観の投影(理想)でしかないと思うんですけど、それから少しでもはみ出ると「お前はダメなやつだ!」と言わんばかりの、他人に対する「失敗を許さない不寛容さ」が、立法にも反映されてしまっている可能性を感じてしまうというのは、とっても生きにくい社会を国民が作っている状態に(国会議員は国民の代表であり、国民主権の国家ならば、国民の総意が立法だと言えるはずなので)他ならないと感じてしまいます…。
「分からない」ということ
私は死刑制度の是非については「分からない」という気持ちでいます。
MCのジョーさんも「何人殺せば死刑など、実際はその人数に応じて刑が決まる印象もあるが、その犯行動機なども踏まえると、本当に人数で括ってしまうことが適切なことなのか、分からない。それ以外にも分からないことが沢山ある。その『分からない』ということは、判断も出来ないということで、分からない以上は触れない、実行しないでおくのが良いと思っている」のようにおっしゃっていました。
私がとても印象的だったのは、ミュージシャンの佐々木亮介さんの言葉。
いろんなことが『分からない』と思って生きて来ている。
その『分からない』ということは『当たり前』だと僕は思っているんだけど、どうも周囲を見ていると、答えを探して判断をしたり、決めつけてしまったりしているように思う。でも『分からない』からこそ、想像をするのだろうと思う。だって、僕たちは全員が共通して、『よく分からないシステムの中』で生きてますよね?僕は今日の出演者の安田先生、森監督のことを『優しい人たち』だと思っているんだけど、それは『分からない』から『想像をする』方だからなのかな、と感じている。『分からない』ということが受け止められないと、人は優しくなれないような気がする。
これは、本当に、すごいことを聞いたなぁって思いました。
私も「分からない」ということを受け止められないと、真実を見ることは出来ないし、想像することも、相手の気持ちを察することも、相手の立場に立つことも出来ないし、相手の考え、存在も含めて、自分とは違う人たちを尊重することは出来ないようには思っていました。
私が「すごいことを聞いたなぁ」と思ったのは、『僕たちは全員が共通して、『よく分からないシステムの中』で生きてますよね?』ということ。
確かにそうだなって思いますよ。
とっても曖昧な常識だったり、本当に必要なのかどうなのか分からない法律だったり、様々な矛盾やすれ違い、食い違い、時代錯誤などなど、全くスッキリすることがない、『よく分からないシステムの中』で、確かに私たちは生きているなーって。
私より10歳以上お若いのよね…。
すごいことに気づきながら生きている人なんだなぁって思いました。
そしてその佐々木亮介さんがアコースティックギターで歌った時の中の歌詞でも印象的だったものを要約して。
言いたいことを言おうと思って、言葉遣い、汚い言葉を遣わない、人を傷つけるような言葉を遣わないようにと、色々上に塗ってしまった結果、本当に言いたいことが分からなくなってしまったら、本当のことを言おうよ。
馬鹿野郎!(と、叫ぶような歌)
これも本当にそうだなって思っているのと、私自身は「自分の本音を言えないと、正しく物事を伝えることは出来ない」と思っているので、あまり表現などには縛られないでいようと思っているので、これにはとっても共感しました。
あと、急に思い出したのですが、私が以前メールカウンセリングを受けた際に、カウンセラーさんに言われたこと。
「言葉遣いや表現に気をつけようとしなくていいです。思ったことを、思ったままの言葉で、感情で、全部私にぶつけるつもりで書いて下さい。あなたの本音が分からないとカウンセリングを受けている意味がなくなります。私に気遣いは一切しないで下さいね。」
やっぱりどこか「本音で生きられない」社会なのかもしれないですね。
その抑圧が、人によっては犯罪となって出てしまい、人によっては「こうあるべき!」という(私から見たらどうでもいい)「べき論」になってしまい、他人への不寛容さを作り上げてしまっているのかもしれません。
佐々木さんの「分からないということは当たり前のことなんだ」という感覚は、多くの人が取り入れて欲しいなぁ、と感じました。
また、その「分からない」はずなのに、断定的に事件を報じてしまうメディアと、そのメディアの言葉を鵜呑みにして、一般市民が加害者や加害者家族を「正義の名の元に」批判をする、嫌がらせをするということは、とても怖い話であると、出演者の方々はおっしゃっていました。
これは常々感じていることです。「分からない」はずなのに、なぜそれを「決めつけた」り、「断定」「判断」した表現を採用して、「悪だ」と決めつけて、攻撃が出来るのか。
その事件は、冤罪の可能性もあります。そして、報じている側もそうですし、騒ぐ一般市民も、確実な証拠に基づいて言葉を発しているのではなく、他人から聞いた情報に過ぎないものでしかないはずなのに、自分の意思で「こうだ!」と決めつけるというのは、それはやっぱり怖いこと、真実を正しく見る目を自ら奪い、自分の目で耳で足で確かめるということを怠っているという事実から目を背けている、無責任さから、他者の心を深く傷つけている行動でしかないとしか、私には感じられません。
出演者の方々もおっしゃっていましたが、「言葉でも人は殺せる」ということですよね。
これは、ブログだったりSNSで発信をしている、掲示板に書き込んだりも含めて、ネット発信することがある、どんな人も、年齢性別、社会的立場などを問わずに意識する必要があることだと感じます。
「ボタン」が押せますか?
イベントでは、死刑執行の手順の説明がありました。
日本の死刑は絞首刑なので、革で作られた絞首刑執行のための器具が首にかけられ、足も動かせないように固定されます。
そして、床が抜けて3m下の奈落のような場所に落とされる。
その床を抜くためのボタンが3つ設置されているのだそうです。
この3つのボタンは、すべてが繋がっている(どれを押しても床が抜ける)という説と、どれか1つしか作動しないという説とがありますが、情報公開はされていないため、誰も確かめることは出来ないことです。
このボタンを押すのは死刑執行人かもしれません。
しかし、死刑囚は、国家の法律、国家の司法によって裁かれた結果、死刑が確定され、死刑執行される以上、そのボタンを押しているのは「国民である」という言い方も出来るように思います。
このボタン、あなたなら押せますか?
私なら押せるだろうか…。
このように、死刑執行というのは、加害者・被害者だけの話、司法や法律の話ではなく、国民全員の問題であり、国民総意の判断・行動でもあると言えるはずです。
出演者のどなたがおっしゃったのか、失念してしまったのですが…、恐らくミュージシャンの山口洋さんだったかと思うのですが…。
「他人の話はすべて自分の話に繋がる」
この考えは私もとても共感しました。
私なら「押せない」と思いましたが、もし、その絞首刑になる死刑囚が、自分の家族や大切な人を殺した人だったら…?
そう考えた時に、「それでも押せない」と言えるのかどうか。
そう思うと、やっぱり私は死刑制度の是非については「分からない」んですよね…。
死刑制度はこのボタンを「押せ」というものではなく、それが仕事だから、役割だからという意味ではなく、自分の意思として「私が押します」と言えるのなら、賛成なのだろうな、と思えますが…。
日本には裁判員制度もありますから、自分の意思、考えが、誰かの命を決める立場に、誰がいつなり得てもおかしくないんですよね…。
全く関係のない話なのですが、この話を聞きながら、正月早々、核ボタンの話をツイッターでしていたアホがアメリカにいて、それを書かせたアホが北朝鮮にいたな、と。
そうやって、核ボタンを「押せる」という感覚のヤツが国のトップにいたら、本当にヤバいと思うんです。
意思を持って「押せない」「分からないから、出来ない」という人が上にいなければ、確実に戦争が起きてしまう。そのような懸念しか感じませんでした…。
小心者が多い
死刑に関するドキュメンタリー映画を作ったこともある森達也監督が、死刑囚の取材に行った際に感じたことで「彼らはとっても小心者が多い」ということ。
よく犯人のことを「とても優しくて穏やかな人で、そんなことをする人には見えなかった」という声を聞きますよね。
私の感覚では、多くの凶悪犯罪は、何かしらに抑圧されたものが一気に攻撃性として放出され、それが他人にぶつけられてしまったもので、これは安田先生もおっしゃっていたのですが「気づいたら、人を殺していた」という結果になってしまったのではないか、と思っていたので、その死刑が確定するような凶悪犯罪であっても、その犯人はとても小心者が多いというのは、納得してしまいました。
イベントの後半では、子供の頃に引っ越した先に「死刑囚の慰問をしている」という方が近所にいて、それを小説「いとの森の家」として出版された、作家であり歌人の東直子さんによる、死刑囚が詠んだ俳句の朗読もありました。
イベント入場時、死刑囚の詠んだ俳句が数件掲載されたプリントが配布されました。
その中で印象的なものを出演者の方が選んで、東さんが評論をする、というコーナーもあり、とても興味深いと感じました。
森監督は「ここには載っていないんだけど、あまりにも印象的で覚えてしまっている俳句がある」と紹介された俳句。
叫びたい 寒満月が 割れるほど
この方は冤罪だった、共犯者として逮捕された側が実行犯だったのに、そうではない側が死刑執行となり、共犯者は死刑から無期懲役に減刑。
共犯者も「俺がやったんだ。あいつじゃない!」と何度も訴えていたそうです…。
自分が無期懲役に減刑されることを伝えられ、嬉しくて「それならあいつも減刑になったはずだ!」と、探しに言ったら、同日に死刑執行されたことを知らされたそうです。
もちろん「何を叫びたかったのか」というのは、誰も分かりません…。
この寒満月というのは、冬の満月のことであろうと…。
冬の夜空は天体が強く輝いて見えますから、満月も大きく輝いて見えるはずで、その満月が割れるほど、叫びたい、辛く内包していることがあったけど、言えなかったのだろうと…。
また、別の出演者の方が選んだもの
風鈴や ほんとのことが いえなくて
これを見た東さんは
「先ほど、森監督が死刑囚には小心者が多いとおっしゃっていたのは、正にこの方はそうだったのではないか、と感じますね…。そして、風鈴以外の言葉がすべてひらがなというのが、本来、その方が持つ性格の柔らかさというか…。そういうものを感じました。」
確かに、選ぶ言葉だけではなく、その言葉を漢字、ひらがな、カタカナ、どれで表現するのか、というのもその人の感性だったりで決まって来ますものね…。
やっぱり…、これは死刑という、とても…ハードでヘヴィな話題でもあるんですけど…。
誰しもその人の性格、性質というものがあって、その人が暮らす環境というものがあって、それが複合していき、その人なりの選択と判断があり、結果、行動となって表れる。
イベントの冒頭で聞いた言葉でもあるのですが「何をしたのか」ということではなく「なぜ、それが起きたのか」ということを知る、というのは、とっても大切に思えました。
イベントで配布された俳句は、以下のとおりです。
また、現在は基金名が「大道寺幸子基金」から「大道寺幸子・赤堀政夫基金」になっているとのことでした。
感情と理屈
これはイベントの最初の時に、佐々木さんがおっしゃっていたのですが、彼も死刑制度については「分からない」という立場なんだそうです。
「何だか、理屈に感情が追いつかないんですよ」ともおっしゃっていました。
それは何となく分かるようにも思えたんですが、私は見方というかが逆なんですよね。
人の最終的な落とし所、発信も決着も、すべて「感情」なんだろうって思っているんですよ。
ただ、多くの全く違う価値観、感情を持つ人たちが共同生活をしていくため、共通のルールとして「理屈」というものが出て来て、それを整備したのが「法律」だと思うし、それが慣習化されたもので、多くの人が言われなくても自然に体得したものが「常識」と言われるものなのかな、と思えるんですよね。
が、どうしても多くの人が「感情」ではなく、「理屈」「常識」「法律(一般的なルールも含める)」で、物事を決着させようとしていることから、その個人の持つ「感情」のずれが無視されてしまっているように思えます。
先ほど書いて、やはりイベント冒頭で佐々木さんがおっしゃったことですが「分からないということは当たり前だと思っている」にも、繋がることだと思っているんですが…。
「理屈」「常識」「法律」っていうのは、どうにか言葉で説明も出来るし、法律っていうのは、日本の場合はすべて文書化されているので、言葉で説明することも可能ですし、その解釈の根拠も言葉で説明できないと法が適用できないので、言葉にすることが求められているはずですよね。
が、言葉に出来るからって、それが事実として「ある」という「認識」は出来ても、自分の価値観として「納得」できるとは限らないんですけども。
カウンセラースクールでは「感情というのは、突き詰めれば、漢字2文字で表現できるもの」と言われました。
例えば「嬉しい」というのは感情ではなく「心の状態」なんだそうです。
何で嬉しいのかというと、そこには「歓喜」というものがあるかもしれない。
だとしたら「嬉しい」というものは感情ではなく、「歓喜」が感情である、と。
でも人によっては、不安が解消されて「安心」できたから「嬉しい」と思ったとしたら、その感情は「安堵」だろうと。
…そこまで「感情」について、深く接していないと思うんですよね、日々の生活で。
個人の持つ感情って、上記のように実はうまく説明できないものだと思うんですよ。
その「感情」というものが「分からない」ものの正体の一部かもしれなくて、「分からないのは当たり前」というのは「感情を持つのは当たり前」ということなのかな?と思えたんですよね。
よく「感情的になってはいけない」と言われますよね。
そのためか、多くの人が自分の素直な気持ち、感情に蓋をしてしまっているのかもしれません。
「感情的になる」というのは、自分から湧き出た感情の制御が出来ずに、理性を失って過ちを犯すことだと思うんですよ。
正にそれが、犯罪になってしまうこと、殺人になってしまうことにも繋がる可能性があるように思います。
でも、「自分がどんな感情でいるのか」を認識することはとっても大切なことだと思うんです。
それがないと、自分がどのような生き方を望んでいるのかさえ分からない。
それが分からないと、どのように生きていいのか、人生の選択をしていいのかさえ、分からなくなってしまい、自分の人生に責任が持てなくなってしまうように思うんですよね。
ちょっと話は逸れてしまいましたが…。
この「死刑制度の是非」について、「賛成」でも「反対」でも「分からない」でも…。
その判断の根っこには、それぞれ個人の「感情」があるように思います。
実は多くのことは「理屈」ではなく、個人の「感情」で決まっている。
でも、自分の本当の感情もしっかり見つめることも出来なければ、相手の感情なんて、察することも出来ないはずです。
だからこそ「分からない」ということを大切にして、分からないからこそ、「知ろう」と、自分のことを観察する。
「分からない」から相手のあり方を自分と同じだと捉えて決めつけるのではなく、「相手には相手の感情と判断基準がある」と、相手の気持ちを大切にして、相手の気持ちを想像することで、相手に優しくなれ、相手を尊重することが出来る。
多分、こういうベーシックなことを多くの人が忘れているから、ちょっとおかしなことが、それが犯罪だろうと、死刑になってしまうような重大、凶悪犯罪だろうと起きてしまっているように思えました。
こう…、よくね、「人権の尊重」とか言われますけども。
まずは目の前の相手でもいいし、ネットやテレビで見える、相手が有名人でも何でもいいんだけど、そういう一人一人を「自分とは違う人なのだから、分かった振りをしないで、相手の意見を考えを尊重しよう」「相手の立場や状況、自分とは全く違うけども、それを想像して自分の行動を決めよう」「たとえ相手が好きであっても、相手は相手、自分は自分。相手も自分も大切にしていこう」として、日々生きていますか?
それが出来てこそ、初めて「人権の尊重」が実行できるんじゃないでしょうか。
自分が報われない、自分がしんどいからって、他人に対して「私(俺)を大切に扱ってくれよ!」ということを大きな言葉、「人権の尊重」に言い換えてないかなーって。
自分が求めていることをまず得ることでなく、自分がそれを得られていなくても、他人にはそれを与えていくスタンスを持って行動化していく。
それが出来てからこそ、死刑制度の是非を論じることが出来るんじゃないかな、って思えています。
3つのお願い
ジョーさんがイベント終了時におっしゃっていた「3つのお願い」がとっても印象的だったので書き留めておきます
・戦争を起こしてしまうようなことをしないで欲しい
・他人を殺してしまうようなことをしないで欲しい
・自分を殺してしまう(自殺してしまう)ようなことをしないで欲しい
とにかく生きて欲しい。
そのような強い願いが伝わって来るようでした。
イベント中は、涙が流れて来るようなことも多かったのですが、このジョーさんの言葉でも涙が浮かんできました。
過去の動画
同イベントの過去の動画が公開されていると伺ったので、貼っておきます。
(自分が後から見るために貼っている説/苦笑)
TOKYO1351 LIVE&TALK vol.2
出演:山口洋、森達也、安田好弘、ジョー横溝、宮台真司
TOKYO1351 LIVE&TALK vol.3
出演:高田漣、岩瀬達哉、森達也、安田好弘、山口洋[HEATWAVE]、MC:ジョー横溝
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