伝える順番の間違いが歪みを呼ぶ
年齢が知れるかもしれませんが、「金八先生かよ」みたいなことを今日は書こうと思います。
漢字だったり、言葉だったり。
何気なく使っているものを、よーく見てみると、そこに「確かにそうだよね」と、納得出来るものが多く隠れているように感じることが多くなりました。
本当に、昔の人はよく言ったものだなぁ、というか。
私がそう感じた事を書き残しておこうと思います。
歪み(ひずみ、ゆがみ)
この「歪み」という言葉を辞書で調べてみます。
歪み(ひずみ)
1 物体に外力を加えたときに現れる形状または体積の変化。ねじれ・ゆがみ・ちぢみなど。
2 物事の進行する途中で欠陥の生じること。また、その欠陥や悪影響。「政策の―を是正する」
3 テレビ・オーディオなどで、音などの再生された信号波がもとの信号波と等しくない状態。
歪み(ゆがみ)
1 ゆがむこと。ゆがんでいる状態。ひずみ。「テレビの画像の―」
2 心が正しくないこと。「性格の―」
そしてこの漢字は、送り仮名がないと「いびつ」と読みます。
歪(いびつ)
[名・形動]《「いいびつ(飯櫃)」の音変化》
1 《飯櫃が楕円形であったところから》
㋐物の形がゆがんでいること。また、そのさま。「箱が―になる」
㋑物事の状態が正常でないこと。また、そのさま。「―な社会」「人間関係が―になる」
2
㋐「飯櫃 (いいびつ) 」に同じ。〈日葡〉㋑楕円形。小判形。いびつなり。
「―なる面桶 (めんつ) にはさむ火打ち鎌/惟然」〈続猿蓑〉
㋒金貨・銀貨などの小判。いびつなり。
「五三桐九分づつ―六十目」〈洒・知恵鑑〉
ほほぉ…。
語源は「いいびつ(飯櫃)」(ご飯を入れる木製の容器)の形状なのですね!
最近、お仕事で上司の様々な判断ミス(としか私は思っていないけど、本人は認めない)で、非常に仕事がバタバタしていて、個人的な気持ちとしては「そちらの指示と判断の結果、今の状態が生まれているのだから、忙しいのも当たり前。自分が生み出した結果でしかない。それで忙しいとか、大変とか、そういうアピール、本当にどうでもいい。というか、こちらまで巻き込まないで欲しい。私も先輩も『それ、違いませんか?』と何度も言葉を変えて時間を変えて、伝えたはずなんだけどね…。」というのが、超絶な本音なのですが(苦笑)。
といっても、起きてしまっていることは片付けるしかないのですけどね。
そんな時に思ったんですよね…。
「あぁ、何だか仕事のやり方や指示や判断、向かっていこうとする道筋が歪んで来ているからこそ、こんな風に、私たち内勤事務の気持ちも含めて、様々なところで歪みが出ているんだろうなぁ。そんな不安定な場所に人はいたくないのだから、人が離れて行く、気持ちが離れているのは当たり前だよねぇ…」
そして。
「歪み」という漢字って、上下を切り離すと「不正」ですよね。
「正しくないこと」を行えば、歪むのは当たり前なんだろうな、と思えると、やっぱり漢字っていうのは、その1文字だけでしっかりとメッセージがあるのだな、と思えたんですよね。
当たり前のことをすればいい
状況などに歪みを感じて、何だかしんどい、居心地が悪い、うまくいかない等の時は、状況を変えようとする前に、その「不正」となるような結果を生み出した方法だったり、判断の基準を少しずつずらしてみる。少しずらすだけでも、「変化」なのですから、それが歪みを直してくれるかもしれません。
正しくないこと、不正なことを行えば、物事や状態が歪んで行くのは当たり前です。
そしてその道筋とは違うことを行えば、不正にはならずに歪まず、スッキリ行くのも当たり前だと思うんですよね。
当たり前の事を当たり前に行えば、当たり前の結果が出ますから、世の中に偶然なんてものは何もなく、すべてが必然で、起こるべくして起きるのです。
求めない結果が出てしまうというのは、何かやり方など、どこかにおかしなところ、不正で歪みを生む場所があった、ということで、周囲でも誰でも何でもなく、自分の選択と判断の間違いの結果でしかないと思うんですよね。
伝える順番の間違いが歪みを呼ぶ
こういう話をしても、聞く耳を持たない、持てない人っていうのは、何かしらの経験と体験、勘で実績を得ちゃった人ですよね…。
そんな、個人の感覚がいつまでも多くの人に通用すると思わないで欲しいし、その個人の感覚が全体に適用されるという考え自体が、そもそも「不正(正しくない)」ことで、歪みを生んでいるということ、私の上司も含めて(苦笑)、気づいて頂ければいいのになー、と思いますね…。
周囲は結構不快な想いで、その個人の経験と体験を聞いて、冷たく「私とあなたは、違う人なので、自分が出来たからって他人も出来るっていう考え方、おかしいよね?」と全く話なんて聞いていなければ、そういう話が増えれば増えるほど、距離を置こうとしてくるかもしれません。
「なるほど、参考になるな!」と耳を傾ける人は、特に多くの言葉を発せずとも、勝手に見よう見まねで、その人のようになろうと努力します。
つまり。
直感や感覚が通用するのは、自分で何かを生み出していき、そこにすでに「ファン」が付いている状態の時だと思うのです。
それは、感覚が受け入れられているのではなく、人柄が好かれていたり、生み出すアイディアなど、唯一無二な個性が受け入れられているに過ぎないのだろうと思います。
本当に、誰にでも出来る仕事として、後継者を作りたい、同じような動きをしてくれる人を増やしたいのであれば、一番説得力があるのは、個人の経験に基づかない、理論だったり理屈だったりの、方法論です。
その方法論を重ねて実践していくうちに、経験が付いてくるのですから、その時になって初めて、「経験と体験と勘」に基づく話をしないと相手には伝わらないんですよ。
だって経験と体験と勘もない人に、そんな話をしても伝わる訳ないんだから。
伝える順番の間違いが人の意欲を下げて、組織が持つ士気だったり意欲、方向性が歪んで行く、理解を得られない結果を生むのだとしたら、やっぱりそれは、選択と判断の不正が歪みを呼ぶのだろうと思うのです。
「経験と体験と勘」で実績を出した事実はあるのだから、それを他人にも気持ちよく評価してもらい、自分の話を伝えるためには、段階をおったり、状況を整理したりなど、気持ちの部分だけではなく、頭の中の整理や状況の整理などなど、しっかり「整えて」いくことが一番の近道のように感じています。
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