物事の捉え方と自分の感情

なんだかすっごい文章を読んでしまった気がします。

上記のリンクを元に以下の記事を書きますので、まずは上記リンクにお目通し頂ければ、と思います。

私はこの渡邊被告の『最終意見陳述』の本題の内容について、深い納得と、深い悲しみを感じずにはいられませんでした。

飲食店でこの記事を読んでいたのですが、不覚にもうるっと、泣いてしまったという...。

彼の言葉でいう「社会的存在」と「生きる屍」についての説明の中で「しつけ」という言葉が出てきます。

私はこの彼の説明以上に「しつけ」について、上手い説明を聞いたことがありません。

「しつけ」というのは、親の価値観や判断を「正しい」として、それを子供に押しつけ、言うことを聞かせると言うことではない。

それでは何なの?

ということが、この文章の中では見事に表現されているように感じました。


他の文章でも、とても物事を見事に本質的に表現をしていて、検事の方がおっしゃっていたという「地頭がいい」ということと「本当はもっと世の中の役に立てたんじゃないか」という感想は私も同意で、やはりその人が本来持つ能力がどのような形で表れるのかというのは、本人の意思もそうなのでしょうけど、もっと深いところには「生い立ち」「生育環境」というのが一生を支配するのではないか。

「三つ子の魂百まで」というように、以下に幼少期の育ち方がその人の人生に、ひいてはその人が存在する社会全体に、どのような影響を与えるのか。

そう考えると、親になるというのは社会的な責任が大きなことで、親だって子供が生まれて初めて親になるのだからこそ、理想は求められない。

理想を求められない以上、やはり助け合うことというのは必須なんだけども、彼の言葉で言う「キズナマン」であればそれは可能であっても、浮遊霊だったり生霊となってしまった人たちにそれを求めるのは、実は残酷なことなのかもしれない。

だからこそ、虐待だったりの負の連鎖が続いて行く。

そんな風に感じたりもしたり…。

渡邊被告はとっても本質的に物事を捉えられる人だと思えました。

インプット能力と、それを自分で咀嚼する情報処理能力が高い。

だからこそなのか、アウトプット能力が抜群に高い。


「そうじゃない人生だってあるんだ」


理想を振り翳し、あるべき論で冷酷に人を責める人達に対して、ここまで説得力が高い背景を論じることが出来るような人は、いただろうか…。


ただ。

彼は自己分析というか、理想というか、あるべきであろう姿と自分の差分を見事に表現していて、自分のことも見事に客観視しているようには思える。

でも。

彼は自分の今いる環境に、とにかく絶望しているようにも思えました。

だからこそ、出所した後に戻らなければならないその環境に足を向けるくらいなら、同級生の墓参りをした後に、自分もそちらの世界に行きたいと望むのだろうと思えます。


心の拠り所がない。

自分の居場所がない。

物理的な自分の居場所ではなく、自分らしく生きるため、安心を感じられながら生きることが出来る、精神的な居場所が、彼にはないのだろうと思えました。


ここには書かれていませんけども…。

彼は出所したら、前科者です。

今までもワーキングプアだったそうですから、自分の力を発揮できる環境というものが与えられるチャンスはないと、どこかで思っているのかもしれない。

それでも、彼の人生の中では快適な環境である、留置所、刑務所で過ごすことで、「人生に少しくらい、いい思いをしてもいいよね」と、自分にご褒美を与えようとしているのだとしたら、もうそれは絶望的に悲しい人生でしかない。


恐らく難しいのだろうね。

「親だって、先生だって、不慣れだったから、その方法しか思いつかなかったんだ」と思えて、自分の人生をズタボロにしたという気持ちがある相手を「許す」「過去のことだ」と水に流して、再スタートを切るなんて、きっと今の彼にはない発想なのかもしれない。

現実を知れば知るほど、許せなくなることだってある。

もちろん、許せて理解を示せることだってあるのだけども、彼にはその「許す」という感覚すら、与えられていないのだろうね。

だって「安心」というものを与えられた感覚がない人に「許す」ということで起きるものが何であるかなんて、きっと想像出来ないのだろうな、と…。


勿論、そういう生い立ちだったからって、犯罪を犯してしまうのは「仕方ない」とは言えないし、それとこれとは別だとしても、結局、この手の犯罪は「かまってちゃん」が行うことで、人が「かまってちゃん」になってしまうのは、やはり幼少期からの生育環境での愛情不足なのだろうと思うと、それがどんな形で表れるか、程度の違いや対象の違いなどなどの差分はあるけども、どんな人も他人事ではないような話でもあると思います。


彼のように犯罪者になってしまう人もいるでしょう。

過度に恋人や友達に頼りきりになって、相手の言うなりになって、相手から愛情をもらおうとする人もいるでしょう。

逆に支配的になり、自分の言うことを聞いてくれる人が多いことが、自分が認められた指標であると思い込んでいく人もいるでしょう。

対象と程度の差があるだけで、根本的にある「愛情不足」というのは、やはり根深い。


この愛情不足、不足していたとしても、それが得られなかった事情についての理解が出来れば「足りない」という不満が「あ、仕方なかったんだ」と割り切れることが出来るから、不満は減って行き、愛情不足に対しての不満も薄れて行く期待は出来るのだけども…。


人は年齢に応じて成長していくのではないのだと思うのです。

そんなに動物的ではないのでしょう。

人は、愛情が一番の栄養。これを適切に受けられたかどうか、受けられていなかったら、それに対して本人が心から前向きに納得をしているか。

それで自分なりに「私は愛されているのだ。大事にされているのだ」という認識が出来た人じゃないと、精神的に大人にはなれないし、精神的に自立もできない。


最近、本当に感情がこじれた結果の凶悪事件が多発している印象があるのですが…。

結局、どんな生育環境であったにしても、その人の捉え方次第で人生はいつでも変えることが出来る可能性は誰にでもあると、私自身の経験から私は思っています。

つまりは、自分の捉え方、感じ取り方が変われば、生まれてくる感情が変わります。

感情というのは、何かしらのきっかけを自分で受け取って、自分がそれに反応した結果に生み出されるものなので、生み出した本人が最終責任を取るものだと思うのです。

といっても、親や周囲の力なしで生きることが出来ない子供にそれを求めるのは残酷で、親が親の機能を果たしてくれなかった生育環境で年齢は大人になったという人は、悲しいかな、自分が自分の親になるしかない(私にもそのような要素はあります)。

何にせよ。

自分の人生なので、自分の面倒は自分で見て行くしかないのです。

すっごく厳しい現実なんだけども、そうやって生きて行くしか、本当の意味での幸せになんてなれないのだろうと私は思っています。


この渡邊被告は、自分で自分の親になり、人生をやり直すにも、犯罪を犯してしまったことで、物理的な居場所もなければ、精神的な居場所を探すことも、通常の人よりも難しくなってしまったように思えます。


さらに、彼の怖さは「浮遊霊」や「生霊」が「無敵の人」としていること。

この「無敵の人」こそ、犯罪者になりうる要素があると思えるんですよね…。

彼も、今のままだった場合...。

出所した後に「消える」ということが出来なかったら、再犯を犯して、また刑務所に行くことや、最悪、死刑の望むために、残忍な犯行を犯す可能性を秘めている。


もっと早くに、差し入れをしてもらった本に出会っていれば、彼の人生は違っていたものになっていたのかもしれない。

それも含めて人生とはとても残酷だな、と思えてなりません…。


輝凛(きりん)の独り言

日々の生活や、ニュース、色々な人からの言葉、本などから、私なりに感じた事を綴っていきます。 その他、運営している別サイトへのリンク記事もあります。