見えない理由、伝わる感情
先日、カウンセリングを受けてきました。
うん。
日々、私が自分自身に対して感じていること、何となく物事から受け取った感覚は、恐らくその通りなんだろうな、と思いました。
そして残念ながら「やっぱりな」と思ったこと。
私は今まで集団(家族や会社、友達関係など)の中で自分の役割を果たすことに重きを置くことが「当たり前」に育ってきました。
だからこそ、そんな彼らの要望に応えたいと思う結果、相手がどんな人なのかを瞬間的に察してしまうのでしょうね。
そしてその人を見る目というのが恐らく他の人よりも確かだったり、人が隠したがる部分が見えてしまうような力が後天的にかもしれないけど、備わったのかもしれない(元からあったのかもしれないけど。いずれにしてもエンパス的な体質なのでしょう)。
そしてその役割を果たしてこれたからこそ、会社でも、友達関係の中でも、様々な集団の中で信頼を得られることが出来ていたり、頼られる、任されることが多かったのかもしれない。
それがきっかけで、仕事や損得勘定を抜きにして、本当に私のことを人としても「好きだな」と思ってくれる人がいてくれる。
それはきっと何よりも、まずは私から相手にメリットを提示出来ていたからだったのだろうな、と思います。
だからこそ、先方も(まともな人であれば)私に何かをしてくれるのだろうと、それが行動として伴うかどうかは別として(それぞれの都合や優先順位もあるしね)、気持ちを持ってくれている人が意外と多いのだろうと思います。
が。
肝心の、その役割を与えられないままの、まっさらの私は「何がしたい」っていうのが、全くもって分からないんですよね。
それはやっぱり、今となっては仕方ない事実と事情として、父親がだらしなくて、母親が父親の役割も果たさなければいけなかったし、家で親が物理的に不在になれば、弟がいる姉の私が、親の役割を果たさなければならず、自分のことも自力で解決していくしかなかった。
家族という集団で、どうしても一番「割を食う」立場になってしまったのだと思う。
さらに母親が「本当のことを言うと心配されるから、外には言うな」と言うような人で、子供ながらに「事実を言って何の不都合があるんだよ。そして何で相手が心配するって分かるの?何でそう決め付けて、こちらの行動を制限するの?」という不満はずっと持っていながら、やっぱり「心配させるのは悪いことなんだ」と刷り込まれてしまったので、親にすら本当のことが言えないまま、ずっと育ってきたなぁ…、と。
心を開くこと、素直になること、言いたいと思っていることを言うことが「制限」されて育ってきて、それが「良し」とされる環境だったからこそ、今でも自分に制限をかけてしまうのだろう、と。
信用していないから言わないのではなく、信用していて心配をかけたくないから言えない。
大切に思う人にこそ、言えないのはそういう生育環境が影響しているのだろうと思います。
そして、そういう「言えない」ということが、結構着いて回るんだよな、私の人生…。
だから、自分に対しても「こうしたい」が言えない、言わないままだから、今の私は自分が分からないままなのかなぁ…、とか。
なかなか厄介な人生ですわ。
少なくとも私自身が自分を評価すると、厄介ですわ。
カウンセリングでは、私の幼少期に様々な問題があることはずっと指摘されてきていて、私もその自覚はあるのですが、なかなかこれが解消出来なくて…。
今回もカウンセラーさんに「小さな輝凛ちゃんが、背中を向けて、こっちを向いてくれないのよ…」と言われました。
きっと、「泣いちゃいけない」と強く自分に言い聞かせていたし、やっぱりそれは「心配かけちゃいけない」という気持ちがあるからだろうな…。
本当は泣いていても、その顔を見せたくないから、背中を向けたり、涙をのみこんで平気なふりしちゃう。
これは私が小さな頃からの「クセ」だったし、当たり前だったんだけども、やっぱりツラかったし、誰も分かってくれないという寂しさを、30代前半で精神的に疾患をこじらせた時に強く感じたのも、この「誰も分かってくれないという寂しさ」が行きすぎた結果だったのかもしれない、と、何となく思っています。
ただ、今は、その「誰も分かってくれないという寂しさ」はあまり感じていなくて。
そりゃ、言わなきゃ分からないし、言っても分かってくれるとは限らないしね。
小さい頃はそうやっていかないと、生きていけなかったけど。
今はそうじゃないからね。あまり「寂しい」とは思わなくなりました。
ただ。
小学生時代からの同級生、私にとっては初恋の人になるのかな。
ここ数日になって、その人の事をやけに思い出します。
というのも、同級生から「あいつの話には、いつもお前の名前が出るよ」と教えてもらったから。今までも彼の話は話題には出たんだけど、彼が私のことを今でも話に出しているなんて、思ってもいなかった。
期待していなかっただけに、嬉しかったんだけど…。
彼は、男の子なのに、私の前ではすぐに泣く子でした。
多分、中学生の時でもそうだったんじゃないかな。
ただ、他の子の前ではどうだったんだろう…。それが分からない、知らないんだよね。
不思議と私は「男のくせに弱い」とか「泣くな」とは思わなかった。
多分口では「泣いちゃダメだよ」と言っていたかもしれない。
ただ、5年生くらいになってからか、そのくらいからは「泣いていることが周囲にバレたら可哀想だから(カッコ悪いとか弱いとか思われたら私もイヤだし、そんなことないと思う)、泣きやむまで話しかけないで、そばにいよう」と思ったような記憶があります。
なぜか「離れちゃいけない」。
そんな気持ちで彼を見守って、ただ、泣いている彼をそばでずっと見ていた記憶が一番強いんですよね。
でも、学校以外の活動での彼の姿はとっても生き生きしていて。
それもすごく不思議だった。
学校では私のそばに来ては、すぐに泣いたり、オチもない他愛もない話(さして面白くもない、今思えば。何を話したか、全く覚えてない)をしたり。すごく大人しい子という印象しかなかったから、本当に不思議でした。
思えば…。
同時に私はその時「泣いちゃいけない」「大丈夫って思わなきゃ、我慢しなきゃ」という気持ちで自分を維持するのが精一杯でした。
もしかすると…。彼は私の代わりに泣いてくれていたのかもしれない…。だから私の前では泣いていたのかもしれない…。
だから私は、彼の涙には不快感がなかったし、「そばにいなきゃ。一緒にいなきゃ」と思ったのかもしれない。
今になって、そんなことを想うようになったのは、私のインナーチャイルドが「泣いている」ということを知らせるためだったのかもしれない。
同時に、彼にとって、私はあの頃の彼の「居場所」だったのかもしれない。
私が今でも当時も、彼のことが「好き」なような、でも、「恋」とは何だか違うような感覚なのは、そういう言葉では説明できない、表現できないようなものを感じていたからかもしれない。
うん、我ながら気持ち悪い話で申し訳ない(^^;
気持ち悪いついでに…。
その彼の現状のことを、同級生から聞いて。
ここ数年、連絡が取れない。他の同級生からも同じことを聞いて。
どんな生活なのかも聞いてはいて、なかなかシビアな環境だな、とは思っていたけど…。
何だか、ずっと私が特に何があったでもないのに、気持ちが重たく涙が出る日々。
何となく思ったのは、きっとどこかでツラくて、心の中で泣いているのかもしれない。
今度は私が彼の代わりに泣いているのかもしれない。
だとしたらさ…。
地元に戻ってくればいいのに。
色んな方法が考えられるはずなのだから、地元から外に出た時と同じ方法で、今度は外から地元に戻ってくればいいのに。
味方や彼のことを分かってくれる人は地元の方が多いんじゃないのかな。
話せば、しっかり言葉で伝えれば、分かってもらえるって。
いくら小学生の時からの友達とはいえ、女の子の前で泣けたんだから、実は強いんじゃないの?弱さを全面に出せる人は強いんだよ。「助けて」って言える人は強いの。
その表向き弱さに感じられる、隠れた強さが彼を助けてくれるような気がしています。
だってさ。
私がいくら「心配」「困っているかもしれない」と思ったとして(決め付けてしまったとして)、自分のそのモヤモヤを消したいために誰かに連絡先を聞いて、連絡をしてみるっていうのも私の自分勝手すぎる。彼を傷つけるかもしれない。
それをしないからって、たとえばライブ遠征のついでに、アテもなく、全国を探しまわるって、どれだけ頭悪くて、無意味で非効率なんだよ、と。
そして本当に意味が分からない。私は家族でもないし、この話はテレビのネタでもない。
それをガチでやろうとしたら、私、相当痛いし、頭悪いし、お花畑思想すぎて、我ながら吐き気がするわ(笑)。仮に頼まれてもやりたくない。そんなにヒマではないので(^^;
仮に地元以外で会えても、何が出来るでもないし、面倒見れるのでもないんだから。
地元やその周辺で会っても面倒は見れないんだけども(笑)、少なくとも数時間会って、話をするだけなら出来るわけです。
その回数や、会う対象が無理なく増やせる、一番現実的な方法は彼が地元やその周辺に戻って来ることだと思うのよね。
誰かに寄りかかってしまっては立て直しは出来ないけども、誰かに元気や気合をもらいながら、しっかりリスタートは切れるんじゃないの、地元やその周辺なら。
今の私にはそれを祈り、願うことしかできないけども。
とにかく生きていて。元気でいて下さい。
生きてさえいれば必ずいつか会える。そう私は信じます。
そんな話もカウンセリングでは遠慮なく言葉で、口から出る言葉でカウンセラーさんに伝えています。
カウンセラーさんも「彼は輝凛ちゃんの代わりに泣いていてくれたのかもしれないわね」とおっしゃっていて、「あぁ、やっぱりね…」と。
他にも私はもっと自分で自分が積み上げてきたことを、もっと褒めていいし、もっと大事にしていいと思えましたわ。
それが「誰にでも出来る」ことであったとしても、それは実は私だからこそ、出た結果があるように思えて来て。
自分ではそれが当たり前だから「大したことない」「誰にでも出来る」と思っていたけども、その「行為」は確かにそうかもしれないけど、その「手順」だったり「内容」だったり、それに行きつくまでの「考え」や「判断」は私独自のものだったからこそ、結果が出たんじゃないかな、とか。
だからってそれが「すごい」とは思わないけども、「私もなかなか捨てたもんじゃない」と思えたと同時に、その私が作り上げたものがキラキラ光って見えて「羨ましい」「妬ましい」と思い、それを奪おうとする人も寄ってくるんだよね、とも。
それは私の財産だし、心をこめて、積み上げる意味があって得たもの。
それを「いいものに見えるから」という理由で安易に奪おうとか、壊してやろうとか、いいように使おうとする人って、私に対して何も与えてくれない。
ということは私がそれをもし奪われたら、私の心には穴が開くことになる。
その埋め合わせをしてくれる、別の価値のあるものを与えてくれそうな人じゃないと、というか、お互いの価値を提供しあい、分け合える間柄じゃないと、やっぱりお話にならないし、一緒にいる価値も意味もない。やっぱり相手は選ぼう。
そう心から思えるようになりました。
が。
カウンセラーさんから言われた言葉。
「輝凛ちゃん、すっごく瞬間的な速さで、相手のことを理解しようとするわね。
相手の顔を見た瞬間から、相手の事をよく見ていて、どんな人だか判断しようとしている。
そのクセをやめた方がいいから、デジタル機器から離れた方がいいわね。
夜も早く寝て、ゆっくりした時間、音楽や風景を楽しむ時間を作った方がいいわ」
お、おぅ…(^^;
それ、精神的な疾患をこじらせていた時に、精神科医にも言われましたよ。
「他の人とは比べ物にならない、驚くほどの速さで相手や物事の深いところまで、間違いなく辿りついてしまう人だね。頭の回転が速すぎる。人が見えないところまで簡単に見えてしまうから、あなたはすぐしんどくなるんだね。あまり考えすぎない、物を見ないようにした方がいいね」
徐々にデジタル断捨離をしていこうかしら…。
が。
その「インナーチャイルドを癒す」方法で、先ほど自宅で実践してみたら、意外なことが見えてきました。
それを改めて、別の記事でお知らせしたいと思います。
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